「25歳以上は飲酒できる」は○か×か

 最近こんなことをよく考える。

 例えば店長が、特に仕事を頑張っている学生アルバイトを労うため飲みに誘うことにしたとする。そこで「いつもよく働いてくれているし、今度飲みに連れてってやろうか。君はもう20歳になった?」と尋ねた。すると学生は「いいえ、21歳になりました」と答えた。

 僕はこの学生の返答には違和感を感じるのだが、皆さんはどうだろうか。個人的経験としてはこの種のことを聞かれると「はい、もう21歳です」とは言っても「いいえ」とは言わないと思う。つまりこの質問は「お酒を飲んでも良い年齢かどうか」という意味で「20歳になった?」と聞いているのだから、年齢が20歳でなくても成人なら「はい」と答えるのが問いの目的にかなうと考える。

 さらにもう一つ例を出してみよう。「日本では25歳以上の人はお酒を飲んでよい」は正しいだろうか。この文だけを提示されれば、僕は「正しい」と答えると思う。でも、文脈として「お酒を飲むことが許されるようになる年齢」を問うているなら、この文は「誤り」とすることもできる。

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 大学の教養の授業で論理学をやったことがある。その中で基本的なことだけど理解しにくい事柄の一つに命題「PならばQ」の真偽があった。

 Pが真の時にQが偽なら「pならばq」が成り立っていないので、この命題は「偽」と判定するのは誰でもしっくりくる。問題はPが偽の時にQが真なら命題の真偽はどうなるかだ。答えは「真」だが、つい「偽」と答えてしまいたくなる。

 例えば「20歳以上ならばお酒を飲んでよい」という命題があったとする。Pが「20歳以上だ」、Qが「お酒を飲んでよい」に当たる。このときPが偽で、かつQが真である「19歳でお酒を飲んで良い」という事例があったとしても、命題「20歳以上ならばお酒を飲んでよい」を否定していることにはならないので、命題は「真」だというわけだ。

 この命題は「20歳以上」の人についてQを設定したにすぎず、「20歳未満」の人については何も言っていないのでこういう結論になるのだが、我々は日本の法律を知っているからつい認知に歪みが生じてしまう。

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 なぜこの例え話をしたかと言うと、4月に枝野幸男立憲民主党代表がツイートした文面が気になっていたからだ。

 時事さんは頻度多く取り上げてくれ、それはありがたいのだけれど、見出しが?のことが多くて困惑しています。本文にある通り「部分的には」ですが、この見出しでは印象が違うのでは?
「野田総務相に政策近い」=枝野立憲代表(時事通信) - Yahoo!ニュース

 枝野氏は立憲民主党立ち上げ以来、自身や党に関する報道について、積極的に異議やそれに類するツイートをしている。特に見出しに関する言及は多いと僕は感じる。

 記事ページが消えてしまったので今となってはこのツイートから推測するしかないのだが、野田総務相と政策が近い部分もあるとした枝野氏の発言に関する記事について、「部分」を抜いた見出しが誤った印象を与えるという異議である。

 僕なんかは「部分的に政策が近い」ということはつまり「政策が近い」ということじゃないかと思う。少なくとも遠くはないだろうし、要点を伝える仕掛けである見出しなら「近い」でいいと思う。要は枝野氏のツイートは難癖にしか思えないのだ。

 でもこの手のことはタイムラインを見ていれば日常的にある。Aという概念がBという概念に包含されていると言っていい文脈において「A」と言った時に、「B」じゃないかというリプライを送りつけるアレだ。

 もちろんその文脈自体がおかしいこともあると思う。つまり「車に4人乗っている」の中に「3人乗っている」を含めて良い場面がかなり限定されるのと同じだ。常識的に考えて適切ではない見出しでも、無理な文脈設定において「間違ってない」と言い張ることはできるものはある。そのジレンマを利用して煽った見出しを付けたがるメディアも確かにある。目玉マークの新聞社とかまさにそうだろう。

 でも「間違っていない」範囲で、しかもその文脈において要旨を崩さない範囲で短くポイントを提示すること自体が、クソリプを誘う結果になってしまうのは本当に情報の出し手だけの問題なのだろうか。

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 そうしたクソリプが起こる一つの原因には、認知の歪みがある。難癖を付けてしまう人は、それを難癖だと理解していない可能性がある。枝野氏がなぜ「部分的に」を削った時事の見出しに文句を付けたのかを考えると、「『部分的に』と予防線を張ったのに」という思いがあったからだと思う。そうした前提の下にあの記事を読んだから、「時事の見出しは印象を誤らせる」という結論に至ってしまうのではないだろうか。

 でも事実として枝野氏が、野田総務相と部分的にではあれ政策が近い旨発言したのは事実だし、「部分的に」があろうとなかろうとさほど印象は変わらないと思う。逆に言えば枝野氏の発言記事を読むような支持層は「部分的」の有無に一喜一憂する認知の枠組みを持つ人なのかもしれない。ならばまさに認知の歪みが生じていることになる。

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 報道サークル時代、事実確認のチェックがとても丁寧な部員がいた。彼は法学部でも優秀な成績らしく取材も丁寧だった。僕と彼は基本的にはとても仲が良いのだが、原稿処理の時にはよく意見が対立することもあった。その中の一つの事例が「など」を入れる・入れないの騒動だった。

 報道では「など」はあまり入れたくない、というか入れる必要がないことが多いのだ。ある会社が「新たに若年層の雇用増加策にも取り組む」ことにニュース性があると判断して記事を書いている時に、同時に高齢層の雇用増加策にも取り組むことになったことを同じ文の中に書く必要はない。書くとしても記事の後の方の段落になるだろう。この時に「若年層など」とすべきかどうか、で結構議論したものだ。まあ実際の議論はもっと高いレベルの話だけど。

 ただ、クソリプを避けようと思うなら「など」を入れたほうが手っ取り早いのは事実。そうして、ニュースが玉虫色になっていく。でもそれは果たして本当に読者のためになっているのだろうか。編集という営為を支えるのは読者の理解力だ。時に不親切な記事もあるが、あまりに読者の理解力を低く見積もると、冗長で逆に何が言いたいのか分からない記事になってしまう。ちょうど日本テレビのバラエティー番組がこれでもかと読者の理解を促す演出をしすぎて、テレビファンから敬遠されてしまうのと同じだ。

 「25歳以上は飲酒できる」に脊髄反射で「飲酒できるのは20歳だろ」と言う前に、「間違ってはないが、この文脈でその表現はふさわしいのだろうか」と一呼吸考えることも、読者のお作法として必要なのではないかと思う。