新聞の楽しさを取り戻す――報道サークル引退に際して

 最近出掛け際に日経新聞の朝刊をカバンに入れて、電車の中で読む習慣を始めた。

 別に就職活動が近いからではない。電子版も整備されスマートフォンでも簡単に記事を読めるこのご時世、車内で紙の新聞を器用にめくりながら記事を読んでいくおじさんの振る舞いにあこがれただけだ。

 僕は1月まで3年弱の間、インカレ(多大学間)の報道サークルで新聞を作っていた。大学の制度から学生劇団の公演、スポーツ、研究ニュース、ボランティア、そしてわが大学で多数の犠牲者が出た阪神・淡路大震災のメモリアル報道――。いろんな取材をし、たくさん記事を書き、たくさんの紙面を編集した。新入部員への教育も担当した。だけど縦折りで新聞を読む習慣はなかった。

 いざ始めてみると、なるほどたくさんの発見があるものだ。

 テーブルに置いて全体を眺めるときよりもじっくり読んでいることに気付く。まるで本を読むようにくまなく読んでいる。まあこれは僕特有の現象かも。でもインドの国家予算が日本の半分くらいだということ、「無印良品」がブランド消費の社会風潮へのアンチテーゼとして生まれたこと、サウジアラビアの国営石油会社サウジアラムコは国柄に反して近代化が進んでいること――とまず普段の環境なら入ってこない情報を手に入れることができる。

 メタ的な話で言えば、15段組紙面は縦折りにしても紙面の多様さが確保できるほどレイアウトづくりの幅があって良いなあとか。1面の「NEWS&VIEWS」が左側に位置するのは、トップと準トップをレイアウト上の横幅が1対2になるような常道の縦割りレイアウトをしても、縦折りすれば折れる位置がちょうど記事間になるので読みやすいんだなあとか。中面で面の真ん中を縦に貫くようにベタ記事を並べる理由の一つには、縦折りの位置と重なることもあるんだろうか、とか。

 逆に紙面の右から左まで文章が貫くように組まれた、オピニオン系の面のレイアウトからは、車内の窮屈な空間じゃなくてゆったりしたところで落ち着いて読んでほしいというメッセージを感じる。考えすぎだろうか。

 ああ、サークル現役時代、あれだけ調べ、学び、考え、理屈を立て尽くしたように思う新聞レイアウトも、まだまだ見えていない世界があるもんだなあと、後輩を前に威張り倒した自分をちょっと反省した。

 現役当時も思っていたことではあるが、一緒に良い紙面、良い記事とは何か、楽しく考え合う仲間がもっと多かったら僕ももっとたくさんの発見を得て、編集室にいる時間を幸福に感じられたのに、と思わないでもない。逆に言えば、どこか自分ばかりが(求められもしないのに)背負い込んだ部分もあるのだろう。

 引退の日、OBから「読者のことを考えろ」とアドバイスをいただいた。最後の1年は会社で言う管理職のような立場だったので読者のことだけ考えるわけにもいかなかったし、正直なところ、記者生活最後の締めくくりという場面でそんなこと言わなくても、と思い出の最後のピースを吹き飛ばされたような思いがした。でも自分もまたOBとなった今は、あの人が言っていたことは確かに正しいんだよなとしみじみと思う。

 熱心なおじさん読者のように縦折りで新聞を読むことも、現役の時だったら「仕事」の意識になって、楽しさはだいぶ抑えられたと思う。実際大学の図書館で神戸新聞を手に取ったら「大学関連の大きなニュースがないように」と祈って紙面を繰っていた。

 もちろん取材でたくさんの出会いがあり、たくさんの貴重な経験をし、サークルの仲間とのあまたの楽しい思い出はある。特に震災関連の取材では、自分の人生観が変わるような、本当にありがたい体験もさせてもらった。でも、それが記者生活の一面なら、新聞を純粋に楽しめなくなっていたのもまた、残念ながら否定し難い一面である。仕事なんてそんなものだと思う。

 どこか遠い記憶となりかけていた「新聞の楽しさ」を、いま取り戻し始めたように思う。やっぱり新聞は読者として楽しむのがいい。または新聞が発行される限り、「楽しさ」と付き合い続ける人生が再開されたのだ。

 ただ、サークルに身を置かなかったら、今の「楽しさ」はなかっただろうとも思う。3年弱で手放した機会費用がそれに見合ったかどうかは、まだ判断しようがない。