また夢ンなるといけねえ

しがない男子大学生。新聞サークルの記者をしている。堺、六甲、西中島南方が生活の拠点。

うさんくさいと切り捨てずに

 新聞部員として最後の紙面編集を終えた日の翌朝、抜け切らない疲れにとらわれた体を無理に起こし、1階のリビングに降りてテレビを付けた。情報番組のスポーツコーナーは、平昌五輪に出場するスノーボード平野歩夢選手の密着リポートを流していた。

 前回ソチ大会で銀メダルを獲得したトップアスリートは、昨年選手生命を脅かすけがを経験。再起の舞台裏には父親のサポートがあった、という筋書きである。控えめに言って「あるあるな物語」だ。

 以前ならこういうストーリーを、「うさんくさい」と切り捨てていたと思う。今もそういう感情が全くないわけではない。家族の応援、妻の内助の功、亡くなった友へ捧げるプレー、師弟愛――。手垢にまみれたスポーツドキュメンタリーの定石を見ると、すぐに指弾したくなる。少年サッカー時代のつらい経験ゆえに、そういうお涙頂戴の構成には反撃したくなる。

 だけど僕は長らくアマチュア記者を続けてきた。高校で2年半、大学で3年、合わせて5年半。するとこうした人間ドラマを引き出すことの難しさを痛感することが多い。継続的に取材を続けたり、取材相手の微妙な表情・振る舞いの変化をとらまえてコミュニケーションを図ったりしないと、読者・視聴者の心を動かすような話というのは出てこない。少なくとも1時間程度取材したくらいでは無理だ。

 さらに記者として人間ドラマの現場に立ち会ってしまったとしたら、もうそれは報じるしかない。立ち会えたことへの感動、感謝、そういうものがあったとき、記者は報じることで報いるしかない。あとは記者の腕次第で、受け手が動くかどうかというだけの話だ。

 まあそんな綺麗事だけでスポーツドキュメントが作られているとはさすがに思わない。平野選手のリポートは正直言って作りが甘かったと思う。だけどそのリポートがゴールではないのだろう。五輪後、はたまた引退までディレクターが追い掛けるつもりなら、今切り捨てるのは受け手としての器の小ささを露呈するだけだ。

 僕はアマ記者生活の中で、取材相手の懐に飛び込むようなことはできなかった。ジャーナリストの著書なんかによく出て来る「あなただから話すよ」みたいな経験はない。でも、ささやかながら、しかし記者個人にとってはとても大切な人間ドラマに立ち会うことはできたし、何なら図らずも介入までしてしまった。今も日本中の、あるいは世界中の記者が、そうした人間ドラマに立ち会っている。そう考えると、どんなリポートもむげにすることは、ひとまずやめようと、そう思う。5年間で学んだことの一つだ。