また夢ンなるといけねえ

しがない男子大学生。新聞サークルの記者をしている。堺、六甲、西中島南方が生活の拠点。

夜を越えるのは、難しい

 前回「夜が明ければ分かることなのに」と書いた人間が、まるで前言撤回するように、こんなタイトルを付けるのはどうかしているのかもしれない。

 だけど、これもまた、事実。夜を越えるのは、難しい。

 夜、自室で独り布団に入り、傍らにパソコンとかスマートフォンとかがあり、明かりを消す。僕は生来寝付きが悪い。だからスマホをいじり、パソコンも開く。鶏と卵、かもしれない。ちなみに僕はアレルギーの関係で、卵の味を知らない。女の人の手の温かさも知らない。人に裏切られるつらさも知らない。

 知らないのに、なのか、知らないから、なのか、とにかく夜には不安や焦燥感が一気に押し寄せてくる。油断も隙もあったものではない。

 そんな時、ある種の人は友達や恋人に助けを求めるかもしれない。電話したり、会いに行ったり、会いに来てもらったり。

 あるいは街の風に吹かれようとするかもしれない。3時になっても、4時になっても粘り強くキャッチを続ける男女がいる街へ。

 でも僕は結局部屋の中にいてじっと考え込んでいることのほうが圧倒的に多い。結局そうするしかないから。

 音楽が人を救うことは、確かにある。僕も経験があるし、周りにもそういう人はいる。

 音楽に救われた経験を持つ者は、音楽を信じ、音楽を崇める。

 だからこそ、こういう夜の、乱暴極まりない苦しさを音楽がすぐに取っ払ってくれないとき、もうなすすべがないのではないかという恐怖が大きい。

 音楽はそれ自体が一つの世界である。だから、暴力的な苦しさが目の前に立ちはだかって身動きが取れなくなると、音楽の世界へ逃げることすらままならなくなる。試しに曲を流してみても、体が受け付けまいとして10秒くらいで止めてしまう。

 音楽の治癒力は絶大だが、体が治癒を受け入れる態勢を作らなければ意味がない。その態勢づくりに一役買うのが、文脈だ。その曲がどういう背景を持ちどんな意味を持つのか。自分が過去にその曲に救われたとき、どんな文脈で救われたのか。音楽と自分とを結びつける「話」によって、治療態勢が生まれる。

 あるときはその「話」をラジオのDJが提供してくれる。僕は言葉によって心を開かれ、音楽によって心を治してもらってきた。そんな気がする。

 ここのところ、音楽をそのままで受け入れることのできない夜に、多く出くわす。言葉の重みを知る。

 夜を越えるのは、難しい。