また夢ンなるといけねえ

しがない男子大学生。新聞サークルの記者をしている。堺、六甲、西中島南方が生活の拠点。

松本人志と太田光

日野皓正事件への太田の批判

 世界的なトランペット奏者の日野皓正氏が、東京都世田谷区教育委員会の体験事業として区内の中学生で結成された「ドリームジャズバンド」のコンサート中に、ドラムソロを叩き続けた男子生徒を制止し舞台上で往復ビンタしたのではないかという事件。

 9月3日のTBSテレビ「サンデー・ジャポン」で太田光が日野を批判した。「大した音楽家じゃない」という発言がニュースでは拡散された。これはこれで意味のある発言なのだが、映像でその部分を確認するとその後に思わずうなった発言があった。

 日野の行動に理解を示した杉村太蔵が「太田さんはやっぱり、愛のムチってのはありえないってお考えですか」と聞いたのに対して太田は「うん」と即答。以下のように続けた。

例えばね、我々がお笑いでお客を笑わす、笑わしたいと思ってるときに客をくすぐっちゃうようなもんなんですよ。それをやっちゃったら、それは自分のやってることの否定になっちゃうから。

 日野は大した音楽家じゃない、とはどういうことか。僕はこれは「体罰の是非」の問題ではないと思う。

 (僕はそうは思わないが)仮に体罰に教育的効果があったとしよう。そしてこのコンサートも教育的事業である。だから体罰に効果があると考える人たちは、教育的事業における体罰も容認されるべきだと考えるのだろうと思う。

 しかし日野に求められている役割の第一は「人格の教育」ではない。人格の教育を第一目的にするなら、日野じゃなくても普段の学校でいい。日野はあくまでもプロトランペッターとして、音楽のスペシャリストとしての役割を求められていると思う。日野の下で数学でもスポーツでもなく、ジャズをやることに意味がある。プロの高い音楽性に触れながら、練習を積み重ねたりスポットライトを浴びて演奏に結実させたりする過程の中で、あくまでも結果的に人格が育まれるわけである。

 ならば日野はあくまでも音楽家として、子どもらの前に立ちはだかるべきだった。そこで太田の発言が利いてくる。事業の目的が教育だからといって、日野が音楽家として求められる範囲を超えて、「教育」に振り切れる必然性がない。ましてや体罰である。「客をくすぐっちゃうようなもん」なのである。体罰や鉄拳こそジャズだ、というなら別だが、それはインターネット上でもジャズファンが否定している*1

ワイドナショーの構造的欠陥

 さて同時間帯ではフジテレビ「ワイドナショー」で松本人志が日野事件に対してコメントしている。

我々の世代はすげえ体罰を受けたけど、今の時代じゃありえへんってみんなよく言うじゃないですか。なぜ今の時代はありえないのか、明確な理由を誰も言ってくれないんですよ。なぜ今はだめで昔はよかったんですか。

 これは勘違いで、学校教育法の体罰禁止規定は1947年からあるし、戦前ですら体罰は禁止だったし*2、教師側に順法意識があったかどうかだけの話。

 この手の無知に基づくとんちんかんな発言が、ワイドナショーでの松本には多い。無知なのは人間だからやむを得ない部分もある。むしろ問題は番組の演出や構成にある。

 松本はかねて「裸の王様」的な発言や笑いをずっと続けてきた。詐欺師につかまれた「心のきれいな人にしか見えない」とする服を着て闊歩する王様に、大人が沈黙する中、子どもは「王様は裸だ」と言う寓話。松本は常に社会に対し「子ども」として、「建て前」をイジり続けてきた。ワイドナショーでもそうした発言が結構ある。

 しかし社会の「建て前」には、「裸の王様」ほど無価値ではないものも多い。体罰だって罰の効果に限界がある一方で、その弊害が大きい*3体罰禁止の「建て前」が子どもの健全な成長を助けているわけだ。

 また先の比喩であれば「子ども」による非難の対象は「王様」であるべきだ。今回で言えば明らかに「王様」は日野皓正であるのだが、松本は日野を少しでもイジってはいない。左派の人たちがよく言う「日本の芸人は権力風刺をしないからだめだ」的な言説に加担するつもりはないが、権力や権威に対する松本の姿勢はそういうものである。

 ダウンタウンの笑いは、松本の陰湿で屈折した、そして時に指摘の対象を誤る「裸の王様」「子ども」的笑いを、ある種の父性の象徴でもある浜田が容赦なくツッコむというスタイルだと僕は解釈している。しかしワイドナショーはそうではない。松本の「裸の王様」に全乗っかりしてしまっている。これでは松本自身が「王様」になったと言われても仕方ない。

太田の職人的価値観

 比較対象になることも多い太田と松本。僕はどちらが嫌いということはない。爆笑問題のラジオも中学~高校の頃は毎週聴いていた(今は毎週は聴けなくなったがそこそこの頻度で聴いている)。一方松本がNHKでやっていたコント番組も毎週録画までして見ていたし、往年の「システムキッチン」「荒城の月」なんかも最高だ。

 両者はそもそも「お笑い」に対する価値観が違うように思う。

 松本は自分の考える「お笑い」を作り上げることが第一目的であり、笑いの探究者である。ダウンタウンの活動は全て漫才である、とよく言われる。ダウンタウンは間違いなくそれまでの漫才の構造を解体したし、と同時にバラエティー番組だろうがコントだろうが、ドラマだろうが映画だろうが全て漫才のエッセンスを基本形にしてきた。先の松本と浜田の笑いにおける役割分担は、その一つである。

 ただ松本は客を選んできた。自分に着いてこい、という姿勢を取った。もちろんそのカリスマ的な振る舞いのおかげで、日本のお笑い史に多くの功績を残してきた事実がある。これは是非ではない。

 一方太田は事あるごとに「芸人は、客が笑わせてなんぼ」という趣旨の話をする。ラジオリスナーならご存知だろうが、昨年9月27日深夜のTBSラジオ「爆笑問題カーボーイ」で、感受性をテーマに約1時間にわたってオープニングトークが繰り広げられた。柳田国男、相模原障害者殺傷事件、高橋維新による「ENGEIグランドスラム」(フジテレビ)批判など話題をさまざま広げながらも、「感受性」や「コミュニケーション」とは何かを太田が熱く語った。

 この話の中で、今の古典落語のほとんどを作ったと言われる江戸末期の落語家三遊亭円朝のエピソードを紹介している。円朝は在るべき落語とは何かを追求し無駄なものをそいでいくのだが、客が誰も来なくなってしまう。ある時上方へ出稼ぎに行くと、あまりにもベタな笑いをやっていたを目にし円朝は、客を笑わせるという原点に戻る、という筋である。

 太田はとにかく客を笑わせたい。芸人に許されたルールの中で、客が笑わせられるかどうか。それだけが芸人に対する評価基準だと、そういう姿勢である。松本の「客を選んででも自分の笑いを追求する」姿勢とは反する。

 あえて言うならば、松本はアーティスト的であり、太田はアルチザン的である。それまでの世界を変えるような爆発的な力は太田にはないが、それでも「客を笑わせる」ことへのストイックさはすごい。先の日野に対する発言も、そういう職人的価値観から生まれたものではないかと僕は思うのだ。

カリスマは色あせる

 芸術家的、職人的どちらが優れているかという話がしたいわけではない。どちらも必要だし、どちらにも僕は楽しませてもらっている。

 ただ松本のカリスマ性は、色あせてきてしまったのかなあという残念さがある。ワイドナショーを引き受け、誰からもツッコまれず、ずれた「裸の王様」を繰り返す様に僕はカリスマ性を感じることはできない。それでも「ガキの使いやあらへんで」で(全盛期よりは衰えたとは言え)未だにヒット企画を出すことができ、「水曜日のダウンタウン」のような良番組を任されている。はっきり言えば「ワイドナショー」が足をひっぱっているようにしか思えないのだ。

 かつて「カーボーイ」で太田は、サンデー・ジャポンの番組コンセプトが「全員で時事ネタ漫才をやる」だったと明かしている*4。過剰と言ってもいい演出のVTRが明けてまず太田が、V中のサンジャポジャーナリストの振る舞いにツッコみ、出演陣ともやりあう姿は確かに漫才として完成されている。

 サンデー・ジャポンはある意味でダウンタウン的なのだ。それを爆笑問題にやられてしまい、当の本人は裏でくすぶっている現状。毎週日曜日の朝、松本に対するどこかモヤモヤした気分を持ちながら、サンジャポを見続けている。

*1:例えば下記の外部リンク。k-yahata.hatenablog.com

*2:blog.livedoor.jp

*3:news.yahoo.co.jp

*4:昨年3月29日深夜放送分での発言