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また夢ンなるといけねえ

しがない男子大学生。新聞サークルの記者をしている。堺、六甲、西中島南方が生活の拠点。

テレビとネットの関係性について考えてみる

テレビとネットの関係性についていろいろと考えたことを書きます。なお,基本的に僕の経験に基づくものが多いので多分当てにはなりません。ご親切な方はツッコミをコメントで入れていただければと思います。

かつてテレビが果たした機能は目の遣り場でした。人間は絶えずどこかを見ていますが,他者と目が合うというのはなかなか快いものではありません。電車の中で新聞や漫画雑誌を読むのは,時間の有効活用という面もありますが,それ以上に他の乗客と目を合わせるのを避けたいという心理的欲求が大きいと思います。テレビも同様で,家族で食卓を囲んだときにテレビはちょうど良い目の遣り場となります。また,テレビは絶えず映像と音声を流してくれるので,家族でひたすら会話を続けなくてもその穴埋めをしてくれる。なんなら会話の潤滑油にさえなってくれる,それがテレビの機能でした。

しかし今やテレビは個人が独りで見るものになっています。生活様式の多様化で,食卓を家族で囲む機会は以前よりはぐんと減ったことでしょう。一方テレビの視聴環境は,一部屋に一台なんてことも珍しくなくなり,ワンセグやパソコンで視聴することもあります。さらには違法アップロードされたテレビ番組の動画を見るということも現実には行われています。視線の遣り場としての機能は以前よりもさほど重要視されなくなりました。

視線の遣り場としての機能は,人々にテレビを惰性で見ることを促していました。その機能が重要視されなくなった今,テレビを惰性で見る動機は無くなってしまったのでしょうか。僕はそうは思いません。むしろ,今でもしっかりとして存在していると思います。それは話題の提供です。

現代は「コミュニケーション消費」の時代であるということがよく言われます。インターネットやSNSの発達で人々は容易に情報を発信することができるようになりました。めまぐるしい情報の消費は現代社会の重要な位置を占めています。

とはいえ,たとえSNSネイティヴ世代であっても,情報を出すことが万人にとって簡単であるわけではありません。当然ですが情報を出すにはネタを多く持っておく必要がありますが,個人が持つネタにも限界はあります。そこで人々は,質の高い情報コンテンツを貰い受けて,そこに何かトッピングをすることで情報として発信するという手法をとります。よくツイッターなどで,新聞記事のリンクを貼って一言の感想を付け足して投稿する人がいますが(僕は一言で何かを言った気になっている人が好きではないんです。自戒を込めて。),あれはまさにそのトッピングによって再生産された情報の代表例です。

すると情報を消費する視聴者がテレビに求めるのは,話題となる情報コンテンツです。SNSで話のネタにできるようなコンテンツが求められています。いま,多くのゴールデンタイムの番組が情報バラエティを標榜するのも頷けます。細切れの情報を多く詰めた盛り合わせのような番組であればネタにし易いですから。これは情報バラエティに限らず,例えば「アメトーーク!」などでも,お笑いタレントの方々が一つのテーマの下にたくさんのトピックを話すという意味では細切れの盛り合わせといえるかもしれません。

よくニュース番組や情報番組などで「インターネットランキング」みたいなものをとりあげただけで「ネットと連携」を標榜している番組があります。ピントがずれて,白々しさしかないこういう事態がまかり通ってしまうのは,個人的経験による推測でしかありませんが,おそらくそもそもテレビマンがインターネットと親しみをそんなに持っていないからだと思います。我々からすれば「ネットで話題になっている」ということ自体にはなんら話題性はありません。でも,そもそもネットに親しみのないテレビマンからすれば「新しい話題」です。これだけ進んだSNSの時代に「ついていけない」人たちが案外マスコミ関係者には多いのかなというのを肌で感じる機会がいくらかあったんですが,もしそれが事実なら,失礼ながら「あの程度の企画」しか作れないのも頷けます。

一方,NHKの『NEWS WEB』がSNSで一定の存在感を出せているのは,それが「ネットで話題」を超えた付加価値をつけているからです。付加価値をつけるために重要なのは,専門家からニュースを理解するためのパースペクティヴを引き出すことです。単に事実を伝えられただけでは,視聴者が新たな話題として手を加えるのが難しくなりますが,パースペクティヴを引き出して,議論や争点を整理することで視聴者は意見をより発信しやすくなる,つまり新たな話題として手を加えやすくなる,という構図です。それは,日替わりのキャスターを「ナビゲーター」と名付けていることからもわかります。ただ,第1期はそういう仕事が得意な人たち(ジャーナリスト,編集者やライター,社会学者など)がナビゲーターを務めていたためにこの構図がはっきりして見やすかったんですが,第2期以降は必ずしもそういう仕事のプロではなくなった(=視聴者により近くなった)ために,視聴者が話題にするためのプロセスが軽視されている気はします。

さて,では僕は細切れの盛り合わせのような番組を好き好んで見ているのかと問われると否定すると思います。これは決して僕だけではなく情報バラエティ化に対して違和感をもつ人は少なくないと思います。さっきと言っていることが矛盾しているとお思いかもしれませんが,さっきの「視聴者は話題を求めている」という話は何もテレビメディアに限ったことではありません。話題の「もと」になりさえすればそれはインターネットでもテレビでも新聞でもなんでもいいんです。つまり,細切れの盛り合わせのようなことしかできないようでは他と代替可能な代物にしかならないということです。

代替可能な代物を作れば,一定の水準の視聴率は達成できても,おそらく記憶に残るような番組は難しいでしょう。記憶に残るような番組にするにはそれ以上の付加価値が必要です。僕はその付加価値は「場」であると考えます。つまり,番組が視聴者を引っ張り込むような「場」あるいは「空気感」を作り出すということです。さきほどの細切れの盛り合わせの番組は,あくまで主体は視聴者にあると言えます。視聴者が好むようなネタをひたすら出し続ける,回転寿司のような番組です。それに対して,「場」を作り出すことができれば,板前さんが目の前で直接握ってくれる寿司屋さんのような特別な付加価値が生まれます。

ニュース番組であればそれはキャスターの存在感,演出方法などだと思います。『ニュースステーション』は,ニュースを分かりやすくしたとか,砕けた伝え方をしたという面ばかりが強調されますが,久米宏氏の存在感やそれと対比されるサブの女性キャスターの力量,そうしたものを可能にする番組全体の演出・雰囲気などこそが,ニュース番組の新機軸としての「場」を作り出したわけです。あるいは,先ほどとりあげた『アメトーーク!』では,司会の雨上がり決死隊の2人の「回し」や,「くくり」という新たな概念,毎回「○○芸人」のリーダー格(ひな壇の下段・一番左に座る人)を設定して準司会的ポジションを設ける,などの工夫が,『アメトーーク!』独特の「場」を生み出しています。

こうした番組では,主体は視聴者から放送側に映っています。番組が視聴者を引っ張り込む,だけど視聴者はそれに不快感を持たず,場合によってはそのことに気づかないというところまでに達しています。これが今のテレビが目指す理想だと思います。おそらく昔のような引っ張り込み方では視聴者はついてきてくれないのでしょうし,そこがテレビマンの苦しんでいるところだと思います。今年の正月に放送された,『とんねるずのスポーツ王は俺だ!!』での木梨憲武さんの振る舞いを「意味不明」と受け止める声が相次いだのは僕も残念でした。岡村隆史さんが自身のラジオ番組で「視聴者はもっと賢いと思っていた」などと落胆するシーンがたまにみられるのも,こうしたことが原因でしょう。

それでも見る人は見ています。良質な番組があれば,かならずアンテナを張っている人がそれらに飛びつき支持します。テレビはやはり良質な番組を作っていくしかないのだと思います。その上で,SNSと視聴者との結びつきの在り様をしっかり理解したうえで,ネットとどのような距離感を保つのかを考える事がテレビマンに求められていると思います。