また夢ンなるといけねえ

成績不振の大学生が書く、日記とかメディアの話とか。幾度となく開設しては閉鎖してを続けてきた我がブログ遍歴。今度は末永く続くように。

涙について(2)

 我が家は2世帯住宅で、70代になる父方の祖母が一緒に暮らしている。

 還暦になる頃には既に耳が遠かったこともあり、元々コミュニケーションはスムーズに取れなかったが、最近は認知症が進み機械類はまず扱えなくなった。1年半前ほど、コンロの火を付けっ放しにしているのを僕が見つけてあわてて止めたことがある。以後もしばらくは自分で炊事をしていたが、それもできなくなり今は両親が代わりに用意している。デイサービスにも週5日通い、なんとかしのいでいるが、年末には排泄も失敗し始め、おむつを穿かせ始めた。

 老化というのは毎年毎年少しずつ進んでいくものではなく、あるタイミングで、屋根から雪がどっさりと落ちるように進むものだという話を聞いたことがある。ここ1、2年の祖母の様子を見ていると、本当にそうなのだなと実感する。

 我が家は毎年、正月に大阪府内にある母の実家へ帰省する。今年は元日から1泊2日。父は2日から仕事があるので夕飯だけ食べて日帰りする。

 元日の午後、雑煮を食べてさあ出発というところ。祖母は我々が一挙に外出しようとしたことを不安に思ったのか、騒ぎ出した。もちろんのことだが既に帰省の説明はしているのだが、もう忘れている、というか多分そもそも理解できていなかったのかもしれない。

 そのうち父がいらいらして大声を出してしまった。それに祖母は腹を立て、暴れようとした。母と僕は慌てて祖母を止め、父に別の部屋に行くよう頼んだ。

 祖母は顔を紅潮させ涙を流しながら「情けない。なんでこんな扱いされんとあかんのや。お父さん(=僕から見たら祖父)が亡くなってからや……」と話した。祖父の死は僕が生まれるはるか前のことである。確かに父は祖母に強く当たることもなくはないが、話の内容には祖母の被害妄想も多分に入っている。

 それでも確かに不憫(ふびん)だった。母は「ほんまやなあ。ひどいわなあ。ちゃんと言うとくから」と祖母に声を掛ける。落ち着いたと思ったら怒りが再燃して立ち上がろうとするので僕は「おばあちゃん、僕を見て。僕の話聴いてくれへんか」となだめた。孫が言えることはそれくらいだった。僕はお茶をカップに入れて飲んでもらった。怒りも徐々にしずまってきたようだが、涙は止まらなかった。

 30分くらいたったころだろうか。そろそろ出発せねばという時間になった。「僕だけ残ろうか?」と言おうとも思ったが、多分それは解決策にはならないと思い言わなかった。

 ずっと祖母の背中をさすっていた母が「それじゃあ私、そろそろ出なあかんから…。一人でも大丈夫?」と声を掛けると祖母は「うん、うん」とうなずいた。「準備してくるからちょっと見といて」と言われ僕は、代わりにそばに居続けた。

 祖母はずっと「ほんま悲しいわ」と言い続けた。手術をするような病気にかかったこともあるし、至って健康というわけでもないのだろうが、でも体力は十分ある。1年前に階段の低層で転んだことがあり以来、2階に上がろうとはあまりしないが、多分階段を昇り降りする力は今でもある。そんな中で認知機能だけが急速に落ちていく。もう今日が何曜日かすらよくわかっていない。時計も読めない。

 さあ僕もそろそろ準備しなければというところを、祖母は察したのだろうか「学校行かなあかんやろ、行ってきい」と言ってきた。正確には僕の出身高校の名前を出していた。

 そうか。今日が元日だということも分からないのか。そして僕がもう大学3年になっていることすら、分からないんだ。だけどとても情けなく悲しい気持ちがある中でも、孫を気遣おうとしている。そんな祖母の弱った姿を見て、突然目から涙があふれてきた。

 自分でも驚いた。心の動きで涙を流すことなんて、もう何年もしていなかった。

 涙はなかなか止まらなかった。次第におえつへと変わっていき、母が再び部屋に入ってくると僕は代わるように別の部屋へ逃げ込んだ。

 半年後には多分僕のことは分からなくなっている、そんな気がする。

校閲担当の元日

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

 新聞部校閲担当として元日にテレビを見ながら考えたことをメモします。

 

明治維新

 午前0時15分。新年最初のNHKニュース(総合テレビ、高橋康輔アナウンサー)で安倍首相の年頭所感を報じていた。「ことしが明治元年から150年に当たることに触れ」とあり、あーそうなのかと思った。

 すると約1時間後、テレビ朝日朝まで生テレビ!」内のANNニュース(井澤健太朗アナウンサー)では「今年が明治維新から150年の節目の年であることに触れて」と報じた。

 言われてみれば「明治維新の開始=明治元年」でいいんだろうか。ネットで少し調べた限りでは、五箇条の御誓文発布をもって維新開始とする説が有力らしいので、この等式は間違いではなさそう。

 ところで年頭所感の原文では「本年は、明治維新から、150年の節目の年です」としてある。テレ朝はそのまんま書いたわけだ。一方NHKはやや勇み足気味。だって首相の思う「明治維新」が「明治改元」なのか「五箇条の御誓文発布」なのかは、少なくとも原文からは読めない。NHKはそれまでの取材に基づいて、首相の明治維新観をつかんだということなんだろうか。真相は薮の中である。

 

▽越える?

 TBSテレビ「最強アスリート元日決戦」のモンスターボックス(跳び箱)が好きだ。競技そのものというよりは、段が増えるたびに挿入される短い映像が好きだ。段の高さを分かりやすくイメージしてもらうために、日常の風景にモンスターボックスを置いた映像である。電話ボックスの横に置いたり、京王線の電車が止まっているホームに置いたり、銭湯の洗い場に置いたり。多分「どこに置く?」っていう会議を真面目にやっているんだろうなあと想像すると面白い。

 まあそんな感じで見ていたのだが「18段を越えた」「ケインを越えられるか」などのテロップが出てきて、新聞部校閲担当としてそわそわした。ここでは「超える」を使うべき場面だ。

 「越える」は「越境」「年越し」などから分かるように、時間や場所など領域をまたぐ水平移動のイメージ。「超える」は「超能力」のように、ある数量や程度を上回るイメージ。同番組の例で言えば、モンスターボックスの段数や選手は、難度の基準として提示されているのだから「超える」を使うべきだ。こういうのがいったん気になってしまうと内容がどうでもよくなってくるのがどうも厄介である。

 愚痴ついでにうんちくを言うと、「軍が国境をこえて攻めた」は水平移動だから「越えて」だけど、「国境をこえた愛」は程度が甚だしい愛のことなので「超えた」の方がふさわしい。なかなか奥が深い。

 

▽フロント

 ついにセレッソ大阪天皇杯で優勝した。僕は少年サッカー時代にセレッソのサッカースクールに通っていたこともあった。我が家はガンバを目の敵にして一貫してセレッソを応援し続けてきた。

 優勝は素直にうれしいのだが、天皇杯の残念なところは、朝刊でどれくらいの扱いにするかが難しいこと。2日の朝刊は毎年各紙が一斉に休むし、年末年始は夕刊もない。だから天皇杯は3日の朝刊に載ることになる。しかし2日は箱根駅伝の往路がある。

 新聞の一面を「フロント」と呼ぶが、写真メインの記事(写真ニュース)を載せて、そのニュースのメイン原稿は中面に回す編集手法がある。スポーツや大きな火事、災害などでよく使われる方法だが、フロントに写真ニュースを複数載せることはまずない。

 読売新聞は箱根駅伝だろうから、他紙がどうするか。気になるところだ。

 気になるのはもう一点。見出しに「初V」なり「初優勝」なりを入れるかどうか。セレッソ天皇杯優勝は43大会ぶり4回目だが、過去3回は全て前身のヤンマーディーゼル時代のものでセレッソになってからは初めて。見出しに「初」をとるのは問題ないが、もしかするとルヴァン杯と合わせての「2冠」をとるかも。予想が捗る。

 

同じ日本語なのに、話す言葉が違うという感覚

 ご存じの通り僕は陰湿で根暗な人間だ。人とのコミュニケーションに関して日々問題を感じている。同じ日本語を喋っているのに、お互いが話している言語がなんとなく違うという感覚が生じる相手が所属する新聞部内ですら複数人いる。いわんや部外をや。念のため言っておくが、方言とかそういう話をしているのではない。言葉の意味はお互い分かる。文章の意味も分かる。なのに何かがすれ違っている。

 新聞部で最新号の発行が終わり、部員同士で感想を述べ合っているのだが、あるコラムに対する評価で「すれ違い」が表れた。自分の平凡さにつまらなさを感じ、就職活動に際して不安に押し潰されそうになるが、前向きに行きたいという内容。原稿の終わりに、前向きな姿勢へと無理に転回しようとしている感じがあって、なぜ前向きになれるのかの担保が文中に見当たらなかった。読んでいてもどかしく、苦しい。僕は厳しいコメントを付けたのだが、肯定的な意見が寄せた部員もいて、うーん、と声が出てしまった。

 今年最もヒットした人文書の一つ「中動態の世界」(國分功一郎著、医学書院)の冒頭に、薬物依存当事者との「対話」で同じような話が出てくる。「世間の人とはしゃべっている言葉が違うのよね」と。同書では依存の苦しみをうまく語れない、語る言葉を当事者が持てない理由を能動―受動の文法の枠組みに求め、解決の糸口を、かつてあった「中動態」という態の謎を解き明かすことから探ろうとしている。

 私は紙面入稿で全ての原稿に目を通す係を今年の1月からやっている。1回の入稿で約100本。これが5回。その度に「すれ違い」に苦しみ、時に苦虫をかみつぶす思いをしたり、ハレーションを起こしたりしてきた。「思いを語った」「輝いた」「夢」。この手のぼんやりとした言葉が登場するたび、なぜこの記者はこんな言葉を平気で書くことができるんだろうと思い続けてきた。

 だけど新聞は1人では作れない。そして1人で作った新聞は絶対に良いものにはならない。取材から編集に至るまで報道は、この「すれ違い」と戦い続ける営みだと、校閲を専門に約1年間活動した今、感じる。

 僕の係の後任はきょう決まる。晴れてレームダックになる。後輩たちにもはぜひこの「すれ違い」とうまく付き合いながら、新聞作りを続けていってほしいと思う。

Do you remenber?

 Do you remember?

 と言っても9月21日の夜のことではありませぬ。今年6月22日の夜、新聞部の入稿で宿泊を余儀なくされた。後輩が作った紙面案の出来が良いものではなく、編集を立て直す必要に迫られたからだった。

 泊まったのは面の編集に関して責任を持つ3人。もちろん僕も含む。責任者ぞろいの面々で原稿を書き直し、レイアウトを組み直した。編集方針の議論は白熱し(と言っても対立があったわけではなく、3人でアイデアを出しながら一緒に練り上げたという感じ)、尻拭いで泊まったやるせなさと同時に、まさにいま新聞を作っている充実感もあった。 

 正直言えば僕はこの時まで、1人の責任者の態度には疑問も持っていた。本当にやる気あるのかなと。

 部員不足故に不本意な責任者就任を強いられた。僕もそいつも。その経緯を嫌というほど知っているから決して責めはしない。だけど「それにしても、」という思いがなかったわけではなかった。

 でもこの時のスリリングな編集方針の議論を経て、なんだ、良い紙面を作りたい、少なくとも作るべきだということだけは共有できてるじゃん、とすごく安心した。

 

 Do you remenber?

 9月21日の夜なら分かち合ったのは愛だったのだが、これは6月22日の夜。あいにくそんなものはなく、だけど3人は互いに記者・編集者・校閲者としての能力というか信頼は得ることができたはず。

 僕が決して楽しいだけではないこの新聞部に今も籍を置き注力しているのは、部員間の信頼によるところが大きい。

 はっきり言って僕を含む重役陣は、プライドが高くて傷付きやすくてこだわりが強くて、要は他人に気を使わせるとても適役とは言えない人間ばかりである。もちろんかの責任者も漏れなく。

 互いに気を使わせながら、微妙な距離感で腫れ物を触るかのようにコミュニケーションを取っていたのはどう考えても不健全だ。

 だけど、仕事上の信頼がついえることは少なくとも僕はなかった。

 

 Do you remember?

 9月21日の夜のことなら、12月になって求めずにはいれらなくなったあの愛はもう戻ってこない。しかし残念ながらこれは6月22日のこと。愛なんてこの新聞部にそもそも居場所のないものだろう。でもあのスリリングでクリエイティブな編集のやりとりが再び繰り返されることも、もうない。

 12月になって9月21日のワンナイトラブの相手を、本当に好きになってしまったことに気付いた「セプテンバー」(アース・ウインド&ファイアー)の主人公は愚かな男である。そして街で、ラジオで今「セプテンバー」がかかるとき、リアルタイムにこの曲を聴いていた今の中高年にとっては、もう戻ってこない青春時代を重ね合わせるのだろう。これもまた、ある意味愚かなことかもしれない。

 問い掛けても、向こうは覚えちゃいない。でも問い掛けざるを得ない。悲しき人間の性かな。

 今僕は野球の編集に深く関与している。そうならざるを得なくなってしまった。あの6月22日の夜以来、僕も少しはスポーツ紙面の編集を独学した。何とか良い紙面ができあがりそうだ。

 あと2か月経てば僕はこの部を引退する。そうしたら、またDo you remember? と問い掛けることになるだろう。今度は6月22日の夜ではなく、今の苦難をしのごうとしている僕へ。二度とは訪れない、青春時代へ。それではBa De Ya!

アース・ウインド&ファイアー「セプテンバー」
youtu.be

夜を越えるのは、難しい

 前回「夜が明ければ分かることなのに」と書いた人間が、まるで前言撤回するように、こんなタイトルを付けるのはどうかしているのかもしれない。

 だけど、これもまた、事実。夜を越えるのは、難しい。

 夜、自室で独り布団に入り、傍らにパソコンとかスマートフォンとかがあり、明かりを消す。僕は生来寝付きが悪い。だからスマホをいじり、パソコンも開く。鶏と卵、かもしれない。ちなみに僕はアレルギーの関係で、卵の味を知らない。女の人の手の温かさも知らない。人に裏切られるつらさも知らない。

 知らないのに、なのか、知らないから、なのか、とにかく夜には不安や焦燥感が一気に押し寄せてくる。油断も隙もあったものではない。

 そんな時、ある種の人は友達や恋人に助けを求めるかもしれない。電話したり、会いに行ったり、会いに来てもらったり。

 あるいは街の風に吹かれようとするかもしれない。3時になっても、4時になっても粘り強くキャッチを続ける男女がいる街へ。

 でも僕は結局部屋の中にいてじっと考え込んでいることのほうが圧倒的に多い。結局そうするしかないから。

 音楽が人を救うことは、確かにある。僕も経験があるし、周りにもそういう人はいる。

 音楽に救われた経験を持つ者は、音楽を信じ、音楽を崇める。

 だからこそ、こういう夜の、乱暴極まりない苦しさを音楽がすぐに取っ払ってくれないとき、もうなすすべがないのではないかという恐怖が大きい。

 音楽はそれ自体が一つの世界である。だから、暴力的な苦しさが目の前に立ちはだかって身動きが取れなくなると、音楽の世界へ逃げることすらままならなくなる。試しに曲を流してみても、体が受け付けまいとして10秒くらいで止めてしまう。

 音楽の治癒力は絶大だが、体が治癒を受け入れる態勢を作らなければ意味がない。その態勢づくりに一役買うのが、文脈だ。その曲がどういう背景を持ちどんな意味を持つのか。自分が過去にその曲に救われたとき、どんな文脈で救われたのか。音楽と自分とを結びつける「話」によって、治療態勢が生まれる。

 あるときはその「話」をラジオのDJが提供してくれる。僕は言葉によって心を開かれ、音楽によって心を治してもらってきた。そんな気がする。

 ここのところ、音楽をそのままで受け入れることのできない夜に、多く出くわす。言葉の重みを知る。

 夜を越えるのは、難しい。

夜が明ければ分かることなのに

台風の中の選挙

 23日夜の一報に声を失った。台風21号の大雨で冠水した三重県度会町の県道の脇で、水没していた乗用車の中から23日朝発見された29歳の男性が、NHKから委託された会社のアルバイトとして前夜の衆院選開票関連の報道業務に当たっていたことが分かったというニュースだ。男性は業務を終えて帰宅途中だったとみられる*1

 僕も22日は、アルバイトとして開票所で「バードウオッチング」と俗に言われる作業に従事していた。開票作業をする職員の手元を双眼鏡でのぞき込み、1票ずつ誰の得票かを数えていく作業だ。全ての票を数えられるわけではないが大まかな得票傾向をつかめるため、選管の正式発表の前に当選確実を打てるようになる。

 日中に大阪市内のオフィスで説明を受け、夕方に電車とバスを乗り継いで開票所へ。午後10時ごろには担当の作業が終わり、社員さんを残して学生アルバイトは引き揚げた。まだ公共交通機関も動いていたので僕は安全に帰ることができたが、日付が変わる頃には風も音を立てて吹くようになり、久しぶりに怖い夜を過ごした。

 「こんなの夜が明けりゃあ結果なんて分かるのに」という思いがないわけではない。一方で早く当確を知りたいとも思ってしまう床屋政談趣味の一人でもある。報道は難儀な商売である。

台風よりも選挙、なのか

 午後11時少し前に帰宅した。既にツイッターで、大阪市堺市の境を流れる大和川が増水しているという投稿が相次いでおり、堺市からエリアメールも届いていたのも知っていたが、玄関を開けるなり妹が、川の近くに住む友人からLINEで送られたという川の映像を見せてきた。

 ただ事じゃないと思った。土地勘のない人には分からないかもしれないが、大和川の両岸は人口密集地域である。はん濫すれば間違いなく被害は出るし、堤防決壊(破堤)に至れば大災害になる。以降僕は、いまこの文章を書いているノートパソコンで、川の水位やライブカメラを見ることができるサイトを閲覧し、状況を逐一確認していた。

 テレビはNHKをつけていた。開票速報番組の時間帯ではあるが、これだけの話になっているのだから当然台風関連もやるだろうと思っていた。なにせ「災害報道のNHK」なのだから。

 ところがBK(大阪放送局)発の時間になっても大半は選挙関連の情報が続いた。一応毎正時手前の時間に台風情報のコーナーはあったが、こちらからすればそれどころじゃない。選挙報道と台風情報の時間配分にかなり違和感を感じた。

 危機を感じる視聴者が「いま、ここに」欲しい情報が手に入れることができない。それがメディアに対してどんな感情を生み出すことにつながるかは、言うまでもない。

冷静になれなかったのか

 亡くなったアルバイトはNHKに直接雇われていたわけではないが、そんなのは理由にはならないだろう。選挙報道のために人を1人死なせてしまったわけだから。

 ここのところNHKは苦々しい話題が続く。10月には首都圏放送センターの記者が2013年に過労死していたことが判明した。同年夏の都議選と参院選の取材に当たっていた。

 確かに選挙報道は大切だが、しかし命はそれ以上に大切なはずだーー。この当たり前のことがかすんでしまう、そういう世界なんだろうか。職員の命も、視聴者の命も。

 結局のところNHKはどれだけ、この台風の深刻さを認識していたのだろうか。気象庁が会見を開いて特別警報の発表可能性も事前に示唆していた。しかし視聴者の心に寄り添うことはできず、身内にも1人犠牲を出してしまっている。最悪の結果といえるだろう。

 夜が明ければどうせ分かること、とどこかで冷静になれなかったのか。悔やまれる夜である。

*1:産経ニュース「NHKのバイト男性死亡、選挙報道の帰り 車水没」(2017年10月23日)www.sankei.com

涙について(1)

 「泣いてる選手にコメント取りに行かなあかんのかな……」

 キャップがつぶやいた。朝から続いた雨はいよいよ本降りになり、試合は七回終了後に中断。キャップと僕は球場三塁側のカメラマン席で、ツイート速報の文を打ち込みながら待機していた。多分雨はやまない。コールドになるだろう。学生野球のリーグ戦。出場する両大学にとってシーズン最後の試合で、すなわち4年にとっては引退試合だ。

 キャップはもう感極まりそうになっていた。プロ、高校、学生、社会人問わず野球を愛する根っからのファンである彼女は、昨年、2年生で入部して以来我が新聞部の野球取材をリードしてきた功労者だ。

 30分ほど経ち、審判団がフィールドに上がってきた。土の状況を確認しているようだ。三塁の向こう側にはもう水たまりができている。南無三だった。

 両チームの選手に集合がかかり整列。「4年生最後の試合ではありますが……」と前置きをして球審コールドゲームを宣言した。

 三塁側には3年ぶりの勝ち点を獲得することが叶わなかった敗者チームが1列に並び、客席へ「ありがとうございました!」と叫ぶ。と同時に一部の選手らが号泣し始めた。僕はとっさに片付けかけていたカメラをつかみ、シャッターを切った。

 コメントを取りにロッカールーム前へ向かう途中、キャップに言った。「泣いてる顔撮っちゃったよ」「私は撮らんかった」「だよな。僕は割り切ってるけど」。写真、多分使われないな、と思った。使わなくていい。でも撮っておかねばと思った。応援要員でしかない僕には、彼ら選手への思い入れはないのだから。

 両チームの監督のコメント取りが終わり、敗者チームの主将に話を聞くべく、控え室の前で立ち、待機していた。多分引退セレモニーみたいなことをやるだろうから、ミーティングルームから選手らが戻ってくるのは時間がかかりそうだとは思っていた。

 「じゃあ泣きはらした後に取材せなあかんのかな……」

 キャップの言葉に、かもな、と答えた。「泣いてる人に取材するのはつらいよな」「そういう経験あるの?」「あるよ。2回かな。どっちも感動の涙だったけどね」

 選手らはなかなか帰ってこなかった。不安になった僕らはミーティングルームがある上階の様子をうかがうことにした。上階には公式スコアがもらえる記者室があって、その入り口の手前側にエントランスがあり、この方向から楽しげな声が聞こえたのでのぞくと、敗者チームの選手やその家族らが集まってレクリエーションめいたことをしていた。

 引退だもんな、と眺めていたら、横でキャップが「はっ」と、もはや声にもならない息の音を漏らした。顔、体全体が硬直して何かに取り憑かれたようだった。「どうしたの」「あれって、もしかして」。よく目を凝らしてみるとそのチーム出身のプロ野球選手が立っていた。母校の試合を見に来ていたということか。

 「彼のおかげで今季の取材頑張れたんだから」。彼女はその選手のファンだった。人数不足と厳しいスケジュールをなんとか調整して取材を続けるのは本当にしんどいと思う。好きで片付くようなレベルの苦労ではないのは傍から見ても分かる。そんな彼女へのご褒美ということなんじゃなかろうかと僕は思った。

 「行ってきてええかな」「どうぞどうぞ。僕は原稿書いとくから」。それでもなかなか決心がつかないようで、選手が帰ろうとしたところでようやく駆けていった。僕はスコアとにらめっこしながら原稿を書いていた。

 戻ってきた彼女は、嗚咽を漏らしていた。選手じゃなくてあんたが泣いてるじゃん、と心の中でツッコみながら、素敵なものを見たなという思いをした。

2017.10.20 05:24 一部修正。