また夢ンなるといけねえ

しがない男子大学生。新聞サークルの記者をしている。堺、六甲、西中島南方が生活の拠点。

先輩の言葉に興醒めした僕

 所属する新聞サークルもついに代替わりの時期が来た。1月号の紙面製作を終えると同時に、3年生が引退した。僕ら2年生が最高学年になる。

 これまでにないほど進捗が進まず、てんやわんやになりながら、なんとか紙面校正が終わり出稿を終えた。僕は校正の責任者を引き継ぐことになっていたので、その研修ということで現職と同様、共通紙面と各大学ローカル面の合わせて約20面をチェック。15時間ほぼノンストップで紙面とにらめっこし続けた。

 自分の仕事が終わったのが土曜の午前11時。しばらく他の作業も手伝っていたが、不意に眠気がひどくなり、狭い編集室でうたた寝をした。

 起きると午後3時半。すでに出稿作業も終わり、先輩たちは引退記念に宅配の寿司をとっていた。ああ、お別れなんだなあ、と働かない頭でぼんやり見ていた。

 するとほろ酔いの男の先輩が近寄ってきて、握手してきた。「いや、ほんとお前すげえよ。ずっと紙面見てたもんなあ。助かった」。しばらく先輩が僕に喋り続けてきた。周りは多少笑いながらも、微笑ましく見てきた。

 当の僕は、これは嫌だなあと思っていた。

 去る者は別れ際に言葉を残したがるものだとは分かっているし、僕もどちらかと言えばロマンチストだから同じようなことをしてきたと思う。

 だけど、残される身からすれば、もはや自由の身の去る側が残す言葉など、基本的に無責任で、陶酔的で、有難くもなんともない。そりゃあんたは気持ちよく終わったかもしれんが、こっちはまだ続くんだ。そういう気分になって、興醒めだった。

 不孝者だなあと思ったから、流石に思いを口にはせず、せめてもの抵抗として話を聞く間、先輩の顔は一切見なかった。

 結局そのまま飲みにいくことになって、その先輩は泣いたり寝たり。結局、ほとんど言葉を交わさずにお開きとなり、さよならしてしまった。「やっぱり、顔を見て話聞くべきだったかな」と一瞬思ったものの、人間の別れなんて、ドラマチックになんかならないもんだ、と思い直した。

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 先輩の引退は、大きな損失です。ありがとうございました、なんて言えません。何、勝手に辞めてんだバカヤロー。謝辞を述べるのは、僕が後輩に、損失の埋め合わせとして何か残せてからです。それまで、とりあえずさようなら。

淋しさは珍味

 夜型の人間だから無駄に徹夜して家を出ることがよくある。きょうもそう。日の出まで1時間半もあるのに家を出た。自転車を出先に置きっぱなしにしてしまったので、歩いて駅まで行く。微妙に徹夜疲れを感じながら、冷え込みが厳しい夜明け前に30分弱歩くのはなかなかオツだ。

 独りで暗い外を歩くのは夜明け前に限る。まだ多くの家庭が眠りについている頃、こっそりと穴を這い出る卑しさと淋しさが何とも言えない。童貞だから「この寒い夜を同じ布団で温め合う人達もいるんだろうなあ」とか想像して、さらに淋しくなる。

 内向的で人付き合いが苦手で、なのに自意識過剰で淋しがるハリネズミのような僕は、淋しささえも一種の珍味のように感じる。足の指がかじかむのを感じながら、黒い空にほの白い雲がゆっくりと動いているのを見るだけで、あたりめをしがんだときの味わいが思い浮かぶ。

 こういう独りの時間には山下達郎の「MELODIES」が似合う。名盤とは分かっているけどこんなに良かったっけ、と思うくらい響いてくる。「黙想」から「クリスマス・イブ」の流れは、胸に淋しさがじわりと広がる感覚がして本当に良い。

 TBSラジオ「東京ポッド許可局」で、感動をうたったり泣けると評判になったりする映画を「排泄映画」と呼んでいるが、僕にとっては淋しさを感じるこの時間はまさに排泄タイムなのかもしれない。孤独を噛み締めつつ、今の生き方しかないよな、と自分を慰める一連のルーティーン。非生産的だが自己肯定には(多少ひねくれていたとしても)大いに役立っている。

 これだから夜型の生活は辞められない。

きれいな街がのこす記憶

 神戸市内の大学に通い始めた頃、高校・大学共通の先輩が飯に誘ってくれたことがある。キャンパスは六甲山の斜面に位置し、周りに学生街はない。駅まで下りてやっと店が出てくる。その時も先輩と2人で歩いて坂、というよりも山を下りた。先輩は地形観察が好きで、道中「この地形は水脈と一致する」とか「この急坂が面白い」とか、地理に疎い僕には分からないけどなんとなく面白そうな話をしてくれた。

 駅周辺まで下りてくると、せっかくだからと周辺を散策することになった。駅の南側には行ったことがなかったから新鮮な体験だったが、住宅街の中にある公園に着いた時、先輩が言った。「この辺は震災で潰れたところやね」。確かに辺りを見回すと、比較的新しい建物が多い。道幅も広めで、何よりも家並みが整然としていて地区開発が計画的に成された跡が見える。

 ふと東日本大震災の被災地、宮城県気仙沼市の様子を思い出した。2011年8月に訪ねたときのことだ。「地震の被害はほとんどなくて、津波で全部やられた」という噂は本当だった。バスの車窓からでも津波が到達しただろう範囲がはっきりと分かるほど、浸水したところとそうでないところでは、家屋の状態がまるで違った。

 同じようなことがこの神戸でも起きていた。先輩と歩いた辺りは延焼した区域ではないので、地盤が弱く建物の倒壊が集中したところなのだと思う。今ではすっかりきれいな住宅街になっている。

 いま所属している報道サークルは、阪神・淡路大震災を機に作られた。部室には震災関連の資料が蓄積されている。当時撮影された写真を収めたアルバムには、先輩と歩いた地区を写したものもあった。今の風景からは想像がつかない画だった。

 毎年1月が近づくと震災特集を展開する。その一環で遺族にもインタビューした。亡くした当時学生の娘さんは、まさに先輩と歩いた辺りの下宿で犠牲になっていたことが分かった。

 まもなく震災から22年がたとうとしている。神戸はきれいになった。しかし、それこそが、22年前の記憶をこの街にとどめているのだと僕は知った。

ワーク・アンド・ライフ・バランスって何だ

 高校1年の時に学生記者として報道に携わり始めてから、もう5年半が過ぎた。
 僕は、報道をやる人間は四六時中報道のことを考えるしかない時期を経験すると思っている。いや、そういう時期を経験しないような記者は、記者としての感性に欠ける。全うに報道をやっていれば、何気ない日々の行動と記者活動が不可分だと自覚したりするはずだと信じている。
 例えば登下校時に掲示板に目をやってネタを探したり、各紙の記事を読むとき細かな表現の差異の理由を考えたり。ネタ探しや表現の追求、取材の糸口は、サークルの活動時間の中にあるとは限らない。それこそ事件は編集室ではなく現場で起きているのだから。
 日々の生活が記者活動と不可分であることは、当然のことである一方で、記者活動に生活が縛り付けられる側面もある。
 ある時、新聞を手に取ったときは読む前にひと呼吸置くようになった。自分の受け持つ範囲のニュースが載っていたら、場合によってはすぐに取材に行かなければならないかもしれないからだ。極端な表現をすれば、新聞は赤紙にもなり得る。
 ネタによってはすぐに動いて取材の糸口を見つけなければ、後になってネタが大きくなったときに逃してしまう可能性もある。メディアが速報にこだわる理由の一つは、後々の取材をしやすくするためというのもあると、今の活動を通して痛感している。
 絶えず瞬発力が求められる記者活動は、とにかく疲れる。約1年弱、小さい部署の責任者をやって、体力も気力も持って行かれたという気がする。
 でもサークル内で、そういう記者のペーソスを理解している人間がどれくらいいるだろうか。部署によって活動の趣向も濃淡も異なる。必ずしもみんなが同じように、辛さと楽しさの相克を感じているとは、僕にはどうも思えない。
 周囲と価値観を共有できないなら、独りでセンチメンタルになるしかない。それがどうも悔しくて、先日の忘年会で激高してしまった。今も苛立っている。周りに、というよりも、自分に。
 まあでもたぶん僕の思い上がりだ。今は冷静になれないし尾を引きそうだけど、時が解決する種の問題だと思う。人の情けにつかまりながら、折れた情けの枝で死ぬ――。報道なんてそんなもんだ。

四六時中、言葉遊びをしていたい

最近「おはようペレストロイカ」という言葉の語感にハマっている。架空のラジオ番組のタイトルのつもり。ペレストロイカだけでも気持ちいいけど、頭におはようが付くことでさらに気持ちいい。ラジオ番組はたいていパーソナリティーの冠が付く。ペレストロイカから連想して、パーソナリティーの名前はゴルビー黒井にしよう。「ゴルビー黒井のおはようペレストロイカ」である。

ゴルビー黒井、ローカルタレント臭がすごい。ローカルタレントのラジオと言えばやはり帯だろう。そこで番組の設定は、月曜から金曜の午前6時から11時まで放送する5時間ワイドにした。

 

こういう具合で僕は言葉遊びが大好きだ。架空のラジオ番組のタイトルやコーナー名を考えるのはあくまでその一つ。コーナー名では他に「近藤ポポロンの呼び鈴鳴らし放題」ってのも気に入っている。もちろん架空のタイトルだ。

 

言葉遊びでもう一つ熱中しているのは、J-POPを音頭っぽく歌ってみるというやつである。うまくはまる曲とはまらない曲があるが、湘南乃風純恋歌」のサビと、ゲスの極み乙女。「私以外私じゃないの」のサビは恐ろしいほどはまる。

♪あ~あ~〜まなつ〜の〜じゃんぼりぃ〜〜

「レゲエ砂浜ビッグウェーブ」は当然、ハイトーンの合いの手である。

純恋歌音頭は五木ひろしに歌ってほしい。カバーアルバム「流行歌(はやりうた)2」で「RIDE ON TIME」をファンキーに歌ってるんだから、純恋歌音頭もできるはずだ。

 

こんな言葉遊びを僕は四六時中していたい。

学生記者のやりきれなさ

インカレの新聞サークルで学生記者をしている。インカレと言ったが、厳密に言えば各大学の新聞部の連合体という感じ。各大学の新聞として発行し、1面と最終面は各大学ローカルの話題を扱い、中面は関西の大学全体のニュースを伝える共通紙面となっている。僕は自分の通う大学ローカルの責任者をやっている。いわゆる「編集長」ってやつだ。

僕の学生記者歴は高校1年から始まり、途中浪人時代の休業期間を含めて5年半ほどになる。 

高校時代は、新聞ではなく映像特集の制作をしていた。とは言っても放送部ではなく、社会問題を調べる部活動。だから扱う話題も、東日本大震災や地方交通など、高校生活とは何ら関係ないものだった。だけど今は大学密着のメディアなので、学内の出来事を中心に取材している。

 

高校時代と最も違うのは、出来事と取材者の関係性だ。かつては興味のあることを掘り下げていくのが中心だったが、今は起きた出来事に反応して動いていくほうがメインになっている。こんなイベントがある、どこそこで運動部が試合をする、今度履修制度が変わるらしい、など日々の話題に服従している感じがする。

仕事は他者の需要に沿って生まれるという。我々マスコミも、読者・視聴者の知る権利に応えるべく取材している、というのが模範解答で別に間違っちゃいない。

でも報道する側は、自分たちの報道が必要とされていると思える機会は少ない。たまに記事がSNSで話題になっていると少し誇らしいが、それでも大半の記事はただ流れるだけだ。徒労感はたまの快哉で釣り合うほど小さくはない。

読者には新聞を読む権利もあるが、便所紙にする権利もある。そこに記者の労力は関係ない。だから新聞は自由主義社会を象徴し得る。

それは分かっている。だから、徒労感くらいでへこたれる自分が、記者業に合っていないのだろうと思う。疲れたせいなのか頭が固くなったせいなのか、もはや進んでやりたいような取材テーマもないのだ。

 

ではなぜ僕は未だに新聞作りを止めないのだろう。

もちろんサークルの仲間との人間関係にほだされる部分もある。業務は辛いがサークルメートとは仲が良い。

でも本当に僕をほだしているのは、他でもなく記者としての欲だと思う。一報が入ったとき一目散に速報原稿を書いている自分がいて、情けなくなる。義務感だけでは説明できない、深層の欲の存在を漠然と感じる。

 

先日、重い話題の取材を担当した。詳しくは触れないが元々臆病で対人関係が苦手なのに、その上ネタがネタである。本当に辛い取材だった。記事の出稿後もしばらくそのことばかり考え続ける日々だった。

生の世界で閉じられない話を、生者が書き、生者が読む。生者の論理で語り、生者の論理で読み、生者の論理で広がっていく。その様が嫌で嫌で、記者になったのを悔やんだ。

 

記者は報われない身の上である。社会を動かす存在として尊敬された時代なんてとうの昔の話。今や疎ましく思われるだけだ。それでも、一報が入れば取材にとりかかってしまう、記事を書いてしまう自分の性癖を恨みつつ、きょうも編集作業に当たる。

ライブドアブログから引っ越してきました

チャーリイの「また夢ンなるといけねえ」は、2016年12月20日、ライブドアブログからはてなブログに移行しました。

過去の記事も、この新ブログでご覧になれます(一部表示が崩れている可能性はあります)。
引っ越しは完全なる気まぐれです。今後ともよろしくおねがいします。