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また夢ンなるといけねえ

しがない男子大学生。新聞サークルの記者をしている。堺、六甲、西中島南方が生活の拠点。

きれいな街がのこす記憶

 神戸市内の大学に通い始めた頃、高校・大学共通の先輩が飯に誘ってくれたことがある。キャンパスは六甲山の斜面に位置し、周りに学生街はない。駅まで下りてやっと店が出てくる。その時も先輩と2人で歩いて坂、というよりも山を下りた。先輩は地形観察が好きで、道中「この地形は水脈と一致する」とか「この急坂が面白い」とか、地理に疎い僕には分からないけどなんとなく面白そうな話をしてくれた。

 駅周辺まで下りてくると、せっかくだからと周辺を散策することになった。駅の南側には行ったことがなかったから新鮮な体験だったが、住宅街の中にある公園に着いた時、先輩が言った。「この辺は震災で潰れたところやね」。確かに辺りを見回すと、比較的新しい建物が多い。道幅も広めで、何よりも家並みが整然としていて地区開発が計画的に成された跡が見える。

 ふと東日本大震災の被災地、宮城県気仙沼市の様子を思い出した。2011年8月に訪ねたときのことだ。「地震の被害はほとんどなくて、津波で全部やられた」という噂は本当だった。バスの車窓からでも津波が到達しただろう範囲がはっきりと分かるほど、浸水したところとそうでないところでは、家屋の状態がまるで違った。

 同じようなことがこの神戸でも起きていた。先輩と歩いた辺りは延焼した区域ではないので、地盤が弱く建物の倒壊が集中したところなのだと思う。今ではすっかりきれいな住宅街になっている。

 いま所属している報道サークルは、阪神・淡路大震災を機に作られた。部室には震災関連の資料が蓄積されている。当時撮影された写真を収めたアルバムには、先輩と歩いた地区を写したものもあった。今の風景からは想像がつかない画だった。

 毎年1月が近づくと震災特集を展開する。その一環で遺族にもインタビューした。亡くした当時学生の娘さんは、まさに先輩と歩いた辺りの下宿で犠牲になっていたことが分かった。

 まもなく震災から22年がたとうとしている。神戸はきれいになった。しかし、それこそが、22年前の記憶をこの街にとどめているのだと僕は知った。

ワーク・アンド・ライフ・バランスって何だ

 高校1年の時に学生記者として報道に携わり始めてから、もう5年半が過ぎた。
 僕は、報道をやる人間は四六時中報道のことを考えるしかない時期を経験すると思っている。いや、そういう時期を経験しないような記者は、記者としての感性に欠ける。全うに報道をやっていれば、何気ない日々の行動と記者活動が不可分だと自覚したりするはずだと信じている。
 例えば登下校時に掲示板に目をやってネタを探したり、各紙の記事を読むとき細かな表現の差異の理由を考えたり。ネタ探しや表現の追求、取材の糸口は、サークルの活動時間の中にあるとは限らない。それこそ事件は編集室ではなく現場で起きているのだから。
 日々の生活が記者活動と不可分であることは、当然のことである一方で、記者活動に生活が縛り付けられる側面もある。
 ある時、新聞を手に取ったときは読む前にひと呼吸置くようになった。自分の受け持つ範囲のニュースが載っていたら、場合によってはすぐに取材に行かなければならないかもしれないからだ。極端な表現をすれば、新聞は赤紙にもなり得る。
 ネタによってはすぐに動いて取材の糸口を見つけなければ、後になってネタが大きくなったときに逃してしまう可能性もある。メディアが速報にこだわる理由の一つは、後々の取材をしやすくするためというのもあると、今の活動を通して痛感している。
 絶えず瞬発力が求められる記者活動は、とにかく疲れる。約1年弱、小さい部署の責任者をやって、体力も気力も持って行かれたという気がする。
 でもサークル内で、そういう記者のペーソスを理解している人間がどれくらいいるだろうか。部署によって活動の趣向も濃淡も異なる。必ずしもみんなが同じように、辛さと楽しさの相克を感じているとは、僕にはどうも思えない。
 周囲と価値観を共有できないなら、独りでセンチメンタルになるしかない。それがどうも悔しくて、先日の忘年会で激高してしまった。今も苛立っている。周りに、というよりも、自分に。
 まあでもたぶん僕の思い上がりだ。今は冷静になれないし尾を引きそうだけど、時が解決する種の問題だと思う。人の情けにつかまりながら、折れた情けの枝で死ぬ――。報道なんてそんなもんだ。

四六時中、言葉遊びをしていたい

最近「おはようペレストロイカ」という言葉の語感にハマっている。架空のラジオ番組のタイトルのつもり。ペレストロイカだけでも気持ちいいけど、頭におはようが付くことでさらに気持ちいい。ラジオ番組はたいていパーソナリティーの冠が付く。ペレストロイカから連想して、パーソナリティーの名前はゴルビー黒井にしよう。「ゴルビー黒井のおはようペレストロイカ」である。

ゴルビー黒井、ローカルタレント臭がすごい。ローカルタレントのラジオと言えばやはり帯だろう。そこで番組の設定は、月曜から金曜の午前6時から11時まで放送する5時間ワイドにした。

 

こういう具合で僕は言葉遊びが大好きだ。架空のラジオ番組のタイトルやコーナー名を考えるのはあくまでその一つ。コーナー名では他に「近藤ポポロンの呼び鈴鳴らし放題」ってのも気に入っている。もちろん架空のタイトルだ。

 

言葉遊びでもう一つ熱中しているのは、J-POPを音頭っぽく歌ってみるというやつである。うまくはまる曲とはまらない曲があるが、湘南乃風純恋歌」のサビと、ゲスの極み乙女。「私以外私じゃないの」のサビは恐ろしいほどはまる。

♪あ~あ~〜まなつ〜の〜じゃんぼりぃ〜〜

「レゲエ砂浜ビッグウェーブ」は当然、ハイトーンの合いの手である。

純恋歌音頭は五木ひろしに歌ってほしい。カバーアルバム「流行歌(はやりうた)2」で「RIDE ON TIME」をファンキーに歌ってるんだから、純恋歌音頭もできるはずだ。

 

こんな言葉遊びを僕は四六時中していたい。

学生記者のやりきれなさ

インカレの新聞サークルで学生記者をしている。インカレと言ったが、厳密に言えば各大学の新聞部の連合体という感じ。各大学の新聞として発行し、1面と最終面は各大学ローカルの話題を扱い、中面は関西の大学全体のニュースを伝える共通紙面となっている。僕は自分の通う大学ローカルの責任者をやっている。いわゆる「編集長」ってやつだ。

僕の学生記者歴は高校1年から始まり、途中浪人時代の休業期間を含めて5年半ほどになる。 

高校時代は、新聞ではなく映像特集の制作をしていた。とは言っても放送部ではなく、社会問題を調べる部活動。だから扱う話題も、東日本大震災や地方交通など、高校生活とは何ら関係ないものだった。だけど今は大学密着のメディアなので、学内の出来事を中心に取材している。

 

高校時代と最も違うのは、出来事と取材者の関係性だ。かつては興味のあることを掘り下げていくのが中心だったが、今は起きた出来事に反応して動いていくほうがメインになっている。こんなイベントがある、どこそこで運動部が試合をする、今度履修制度が変わるらしい、など日々の話題に服従している感じがする。

仕事は他者の需要に沿って生まれるという。我々マスコミも、読者・視聴者の知る権利に応えるべく取材している、というのが模範解答で別に間違っちゃいない。

でも報道する側は、自分たちの報道が必要とされていると思える機会は少ない。たまに記事がSNSで話題になっていると少し誇らしいが、それでも大半の記事はただ流れるだけだ。徒労感はたまの快哉で釣り合うほど小さくはない。

読者には新聞を読む権利もあるが、便所紙にする権利もある。そこに記者の労力は関係ない。だから新聞は自由主義社会を象徴し得る。

それは分かっている。だから、徒労感くらいでへこたれる自分が、記者業に合っていないのだろうと思う。疲れたせいなのか頭が固くなったせいなのか、もはや進んでやりたいような取材テーマもないのだ。

 

ではなぜ僕は未だに新聞作りを止めないのだろう。

もちろんサークルの仲間との人間関係にほだされる部分もある。業務は辛いがサークルメートとは仲が良い。

でも本当に僕をほだしているのは、他でもなく記者としての欲だと思う。一報が入ったとき一目散に速報原稿を書いている自分がいて、情けなくなる。義務感だけでは説明できない、深層の欲の存在を漠然と感じる。

 

先日、重い話題の取材を担当した。詳しくは触れないが元々臆病で対人関係が苦手なのに、その上ネタがネタである。本当に辛い取材だった。記事の出稿後もしばらくそのことばかり考え続ける日々だった。

生の世界で閉じられない話を、生者が書き、生者が読む。生者の論理で語り、生者の論理で読み、生者の論理で広がっていく。その様が嫌で嫌で、記者になったのを悔やんだ。

 

記者は報われない身の上である。社会を動かす存在として尊敬された時代なんてとうの昔の話。今や疎ましく思われるだけだ。それでも、一報が入れば取材にとりかかってしまう、記事を書いてしまう自分の性癖を恨みつつ、きょうも編集作業に当たる。

ライブドアブログから引っ越してきました

チャーリイの「また夢ンなるといけねえ」は、2016年12月20日、ライブドアブログからはてなブログに移行しました。

過去の記事も、この新ブログでご覧になれます(一部表示が崩れている可能性はあります)。
引っ越しは完全なる気まぐれです。今後ともよろしくおねがいします。

兄弟船が聞きたい

先日友人と喋っていて一つの結論に達した。「西野カナは天才だ」というものである。

西野カナといえば恋人に会いたくて震えたかと思ったら、数々の無理難題を恋人に要求してくる女性シンガー。モテない男の立場からすれば、もはや狂気だ。

以前勤めていたコンビニエンスストアでは、有線の音楽が店内に流れていた。ちょうど「トリセツ」が発表された頃は、一定の間隔で耳に入る。夜の閑散とした店で「これからもどうぞよろしくね」と怨念のごとく言われるからたまったもんじゃない。

しかし認めざるを得ないのは、西野カナの曲は耳に残る。侵略行為だ。気が付くと「な~にが、こんな私だけど黙って許してね、じゃバーカ」といきり立つ僕の姿が居るから恐ろしい。嫌いと好きとは裏返しだ。

こういう話を友人としながら、ふとTBSラジオ・東京ポッド許可局の「ラッスンゴレライ論」の回を思い出した。マキタスポーツ曰く、ラッスンゴレライの特徴は、リズムと歌詞が倒錯を起こしていることだという。

音楽用語でシンコペーションというのがある。拍の食い込みを指す言葉で、例えば普通の四拍子2小節を「タンタンタンタン/タンタンタンタン」と数えるところを「タンタンタンタタ(/)ーンタンタンタンタタ(/ーン)」のように拍をずらすことでグルーヴが生まれるというものだ。

田中シングルのセリフ「ラッスンゴレライ、ラッスンゴレライ、ラッスンゴレライ、説明してね」は拍通りに歌っているが、歌詞の内容は意味不明で、いわゆる「ボケ」にあたる。一方はまやねんのセリフ「ちょっと待てちょっと待てお兄さん」はツッコミにあたるから詞の内容は真っ当なのに、シンコペーションが起きていて拍は言わば破調を起こしている。それが、リズムと歌詞の倒錯、というわけだ。

翻ると西野カナも倒錯を起こしているのではないだろうか。ここでは、歌詞の内容と歌の上手さである。言っている詞の内容は(女性の受け取り方は別として男性にとっては)支離滅裂で数多の要求を快諾するのは難しい。ところが西野カナ、歌が上手いのだ。変なことを長々と連ねても、結局サビで「これからもどうぞよろしくね」と美声で歌われてしまうのだから、もう白旗を振るしかない。歌の上手さは強い武器だと、西野カナから教わったのである。

するとこの逆、つまり曲は良いのに歌がそこまでというミュージシャンを考えてみた。真っ先に思いついたのがクリス・ハートである。

彼がテレビの画面に出てくる度に「コイツ大して歌上手くないよなあ」と家族で話をしている。以前やっていた、BSプレミアムで安全地帯やチューリップの昔の武道館ライブの映像を放送する番組の途中、クリス・ハートの武道館ライブに臨む様子に密着するコーナーがあった。番組サイドとしてはミュージシャンにとっての武道館の存在感を見せたかったのだろうけど、せっかく名演の映像に酔いしれている最中にクリス・ハートが登場して興醒めしたのを覚えている。

カバーシンガーとして売れるためには抜群に歌が上手いのが必要条件だと思っていた。現にMay J.は、松たか子や神田沙也加が上手すぎて失笑の対象になってしまった感はあるが、それでも歌は上手いと思う。町内会のカラオケ大会にゲストとして出てきたら、普通に歌を聞きたい。

でもクリス・ハートはゲストというより優勝者という感じがする。そりゃ上手いけど金払って聞きたいかと言われれば、同意しかねる。まあ大体、プロデビューのきっかけが日本テレビの外国人版のど自慢だもんな。

先述の武道館ライブは結構客が入っていて、みんなそんなにクリス・ハート聞きたいのか? と驚いた記憶がある。日本の文物に外国人が惚れているのを見て、日本人が嬉しがる構図なんだろうか、とか思いながら、早くチューリップのライブ見せて〜とイライラした。

僕は日本の心を歌ってもらうなら、クリス・ハートよりも西野カナにお願いしたい。「上を向いて歩こう」くらいなら西野カナは結構すごいんじゃなかろうか。でもそれじゃ面白くないので「兄弟船」とか「俺ら東京さ行ぐだ」とか「冬のリヴィエラ」とかやってほしい。西野カナのこぶしを聞きたい。クリス・ハートはトリセツでも歌っておけ。

視線の裏の気苦労に思いを馳せて

 昔、といっても1年半前くらいだけど、サークルの先輩が「部内恋愛は良いよ」と言ってきたことがある。曰く「お互い事情が分かるから」と。報道という実務的な活動をしている都合上、新聞の入稿期には多忙を極めるし、なんだかんだで時間のやりくりには知恵が要る。2人の時間が作れないようなことがあっても「お互い事情は分かるから」と我慢しやすい、そういう趣旨だろうと受け取った。

 でも部内恋愛というのは大体、厄介扱いされることも多い。人間関係の調和が、部内恋愛の存在によっていびつになってしまう場合が間々ある。それ自体を楽しむようになると、サークルクラッシャーとかビッチとか言われるのだろうけど。

 うちのサークルのように実務的側面が大きいところだと尚更で、人間関係のズレが仕事に影響し出すと、さらに部内恋愛への風当たりは強くなる。そういうことを懸念する人間は、サークルメイトとの交際に慎重になる。

 僕はというと、別に部内恋愛に対してはネガティブなイメージを持っていない。仕事に何か不具合が出ても、人間が集まっている以上は仕方ないと思っている。でも自分が部内恋愛に乗り気になるかと言われれば、多分気が進まないだろうなあとも。

 先日、別のサークルにいる友達と喋った。そちらでは、引退するメンバーが部内恋愛のレッテルから逃れられるのを機に、元々好意を寄せていた相手に告白しようとする動きが出ているらしい。逆に言えばそれくらい、気を遣いながら日々の活動に当たっているわけだから、偉いと言えば偉いのか。

 僕のサークルでも、恋愛に限らず、人間関係の変化のなかで、表面化しないような視線のやりとりがなされていると感じる。気苦労の多い世界だなあと思いながら、生来のゴシップ欲が想像をかきたてる。貧しい性根だなと思う。

 自分は当事者になり得ないと思っているから、ある程度楽しく見ることが出来ているけれど、やりとりの当事者からしたらたまったもんじゃないのかな。

 報道は事実を扱う営為だけど、事実にすらなれずに心のなかで押し込められる感情を弔える余裕が、みんなにあるのだろうか。僕にはあるだろうか。そんなことを考えながら、きょうも原稿と向き合っている。