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また夢ンなるといけねえ

しがない男子大学生。新聞サークルの記者をしている。堺、六甲、西中島南方が生活の拠点。

学生記者のやりきれなさ

インカレの新聞サークルで学生記者をしている。インカレと言ったが、厳密に言えば各大学の新聞部の連合体という感じ。各大学の新聞として発行し、1面と最終面は各大学ローカルの話題を扱い、中面は関西の大学全体のニュースを伝える共通紙面となっている。僕は自分の通う大学ローカルの責任者をやっている。いわゆる「編集長」ってやつだ。

僕の学生記者歴は高校1年から始まり、途中浪人時代の休業期間を含めて5年半ほどになる。 

高校時代は、新聞ではなく映像特集の制作をしていた。とは言っても放送部ではなく、社会問題を調べる部活動。だから扱う話題も、東日本大震災や地方交通など、高校生活とは何ら関係ないものだった。だけど今は大学密着のメディアなので、学内の出来事を中心に取材している。

 

高校時代と最も違うのは、出来事と取材者の関係性だ。かつては興味のあることを掘り下げていくのが中心だったが、今は起きた出来事に反応して動いていくほうがメインになっている。こんなイベントがある、どこそこで運動部が試合をする、今度履修制度が変わるらしい、など日々の話題に服従している感じがする。

仕事は他者の需要に沿って生まれるという。我々マスコミも、読者・視聴者の知る権利に応えるべく取材している、というのが模範解答で別に間違っちゃいない。

でも報道する側は、自分たちの報道が必要とされていると思える機会は少ない。たまに記事がSNSで話題になっていると少し誇らしいが、それでも大半の記事はただ流れるだけだ。徒労感はたまの快哉で釣り合うほど小さくはない。

読者には新聞を読む権利もあるが、便所紙にする権利もある。そこに記者の労力は関係ない。だから新聞は自由主義社会を象徴し得る。

それは分かっている。だから、徒労感くらいでへこたれる自分が、記者業に合っていないのだろうと思う。疲れたせいなのか頭が固くなったせいなのか、もはや進んでやりたいような取材テーマもないのだ。

 

ではなぜ僕は未だに新聞作りを止めないのだろう。

もちろんサークルの仲間との人間関係にほだされる部分もある。業務は辛いがサークルメートとは仲が良い。

でも本当に僕をほだしているのは、他でもなく記者としての欲だと思う。一報が入ったとき一目散に速報原稿を書いている自分がいて、情けなくなる。義務感だけでは説明できない、深層の欲の存在を漠然と感じる。

 

先日、重い話題の取材を担当した。詳しくは触れないが元々臆病で対人関係が苦手なのに、その上ネタがネタである。本当に辛い取材だった。記事の出稿後もしばらくそのことばかり考え続ける日々だった。

生の世界で閉じられない話を、生者が書き、生者が読む。生者の論理で語り、生者の論理で読み、生者の論理で広がっていく。その様が嫌で嫌で、記者になったのを悔やんだ。

 

記者は報われない身の上である。社会を動かす存在として尊敬された時代なんてとうの昔の話。今や疎ましく思われるだけだ。それでも、一報が入れば取材にとりかかってしまう、記事を書いてしまう自分の性癖を恨みつつ、きょうも編集作業に当たる。

ライブドアブログから引っ越してきました

チャーリイの「また夢ンなるといけねえ」は、2016年12月20日、ライブドアブログからはてなブログに移行しました。

過去の記事も、この新ブログでご覧になれます(一部表示が崩れている可能性はあります)。
引っ越しは完全なる気まぐれです。今後ともよろしくおねがいします。

兄弟船が聞きたい

先日友人と喋っていて一つの結論に達した。「西野カナは天才だ」というものである。

西野カナといえば恋人に会いたくて震えたかと思ったら、数々の無理難題を恋人に要求してくる女性シンガー。モテない男の立場からすれば、もはや狂気だ。

以前勤めていたコンビニエンスストアでは、有線の音楽が店内に流れていた。ちょうど「トリセツ」が発表された頃は、一定の間隔で耳に入る。夜の閑散とした店で「これからもどうぞよろしくね」と怨念のごとく言われるからたまったもんじゃない。

しかし認めざるを得ないのは、西野カナの曲は耳に残る。侵略行為だ。気が付くと「な~にが、こんな私だけど黙って許してね、じゃバーカ」といきり立つ僕の姿が居るから恐ろしい。嫌いと好きとは裏返しだ。

こういう話を友人としながら、ふとTBSラジオ・東京ポッド許可局の「ラッスンゴレライ論」の回を思い出した。マキタスポーツ曰く、ラッスンゴレライの特徴は、リズムと歌詞が倒錯を起こしていることだという。

音楽用語でシンコペーションというのがある。拍の食い込みを指す言葉で、例えば普通の四拍子2小節を「タンタンタンタン/タンタンタンタン」と数えるところを「タンタンタンタタ(/)ーンタンタンタンタタ(/ーン)」のように拍をずらすことでグルーヴが生まれるというものだ。

田中シングルのセリフ「ラッスンゴレライ、ラッスンゴレライ、ラッスンゴレライ、説明してね」は拍通りに歌っているが、歌詞の内容は意味不明で、いわゆる「ボケ」にあたる。一方はまやねんのセリフ「ちょっと待てちょっと待てお兄さん」はツッコミにあたるから詞の内容は真っ当なのに、シンコペーションが起きていて拍は言わば破調を起こしている。それが、リズムと歌詞の倒錯、というわけだ。

翻ると西野カナも倒錯を起こしているのではないだろうか。ここでは、歌詞の内容と歌の上手さである。言っている詞の内容は(女性の受け取り方は別として男性にとっては)支離滅裂で数多の要求を快諾するのは難しい。ところが西野カナ、歌が上手いのだ。変なことを長々と連ねても、結局サビで「これからもどうぞよろしくね」と美声で歌われてしまうのだから、もう白旗を振るしかない。歌の上手さは強い武器だと、西野カナから教わったのである。

するとこの逆、つまり曲は良いのに歌がそこまでというミュージシャンを考えてみた。真っ先に思いついたのがクリス・ハートである。

彼がテレビの画面に出てくる度に「コイツ大して歌上手くないよなあ」と家族で話をしている。以前やっていた、BSプレミアムで安全地帯やチューリップの昔の武道館ライブの映像を放送する番組の途中、クリス・ハートの武道館ライブに臨む様子に密着するコーナーがあった。番組サイドとしてはミュージシャンにとっての武道館の存在感を見せたかったのだろうけど、せっかく名演の映像に酔いしれている最中にクリス・ハートが登場して興醒めしたのを覚えている。

カバーシンガーとして売れるためには抜群に歌が上手いのが必要条件だと思っていた。現にMay J.は、松たか子や神田沙也加が上手すぎて失笑の対象になってしまった感はあるが、それでも歌は上手いと思う。町内会のカラオケ大会にゲストとして出てきたら、普通に歌を聞きたい。

でもクリス・ハートはゲストというより優勝者という感じがする。そりゃ上手いけど金払って聞きたいかと言われれば、同意しかねる。まあ大体、プロデビューのきっかけが日本テレビの外国人版のど自慢だもんな。

先述の武道館ライブは結構客が入っていて、みんなそんなにクリス・ハート聞きたいのか? と驚いた記憶がある。日本の文物に外国人が惚れているのを見て、日本人が嬉しがる構図なんだろうか、とか思いながら、早くチューリップのライブ見せて〜とイライラした。

僕は日本の心を歌ってもらうなら、クリス・ハートよりも西野カナにお願いしたい。「上を向いて歩こう」くらいなら西野カナは結構すごいんじゃなかろうか。でもそれじゃ面白くないので「兄弟船」とか「俺ら東京さ行ぐだ」とか「冬のリヴィエラ」とかやってほしい。西野カナのこぶしを聞きたい。クリス・ハートはトリセツでも歌っておけ。

視線の裏の気苦労に思いを馳せて

 昔、といっても1年半前くらいだけど、サークルの先輩が「部内恋愛は良いよ」と言ってきたことがある。曰く「お互い事情が分かるから」と。報道という実務的な活動をしている都合上、新聞の入稿期には多忙を極めるし、なんだかんだで時間のやりくりには知恵が要る。2人の時間が作れないようなことがあっても「お互い事情は分かるから」と我慢しやすい、そういう趣旨だろうと受け取った。

 でも部内恋愛というのは大体、厄介扱いされることも多い。人間関係の調和が、部内恋愛の存在によっていびつになってしまう場合が間々ある。それ自体を楽しむようになると、サークルクラッシャーとかビッチとか言われるのだろうけど。

 うちのサークルのように実務的側面が大きいところだと尚更で、人間関係のズレが仕事に影響し出すと、さらに部内恋愛への風当たりは強くなる。そういうことを懸念する人間は、サークルメイトとの交際に慎重になる。

 僕はというと、別に部内恋愛に対してはネガティブなイメージを持っていない。仕事に何か不具合が出ても、人間が集まっている以上は仕方ないと思っている。でも自分が部内恋愛に乗り気になるかと言われれば、多分気が進まないだろうなあとも。

 先日、別のサークルにいる友達と喋った。そちらでは、引退するメンバーが部内恋愛のレッテルから逃れられるのを機に、元々好意を寄せていた相手に告白しようとする動きが出ているらしい。逆に言えばそれくらい、気を遣いながら日々の活動に当たっているわけだから、偉いと言えば偉いのか。

 僕のサークルでも、恋愛に限らず、人間関係の変化のなかで、表面化しないような視線のやりとりがなされていると感じる。気苦労の多い世界だなあと思いながら、生来のゴシップ欲が想像をかきたてる。貧しい性根だなと思う。

 自分は当事者になり得ないと思っているから、ある程度楽しく見ることが出来ているけれど、やりとりの当事者からしたらたまったもんじゃないのかな。

 報道は事実を扱う営為だけど、事実にすらなれずに心のなかで押し込められる感情を弔える余裕が、みんなにあるのだろうか。僕にはあるだろうか。そんなことを考えながら、きょうも原稿と向き合っている。

クラスのアイドル

 「クラスのイケてる女子」の中にもいろいろあって、彼氏を取っ替え引っ替えしてるような人もいれば、男子が健全なあこがれを抱く対象としての女子というのもいたな、とふと思った。

 僕の高校時代にも、可愛らしくて気配り上手で、リーダー的な存在ではないけどその女子の言うことにはみんななんとなく従っている、という感じの女の子がいた。みんなが健全なあこがれとして、その子を一目置いている。クラスのアイドル、というのはこういう人のことを言うのだろうな、と今になって思う。

 クラスのアイドルだったその子については、浮いた話をあまり聞かなかった。2年の時に、クラスのイケメンと付き合ったという話はあったが結局はすぐに別れてしまったらしい。そのイケメン以外で告白した男子の話も聞いたことがなかった。「アイドルではあるけど、付き合うとなると話は別」と考える男子が多かったのだろうか。

 さて、モテない人間というのは往々にして、その手の機微が読めない割に理想は高いことがある。身の程も知らないで、イケてる女子に恋心を抱いてしまう、そんなダメな男は周りにいくらでもいた。

 僕もその一人だった。モテない男子のグループで、クラスでも別次元扱いだったから、女子とじっくり話すことなんてほとんどない。昼食も放課後も男子ばっかりで馬鹿話をしているだけ。女子を知らないから余計に、女子に対する理想が膨らんでいく、典型的なダメ男である。



 しかし高校2年の頃になると、どういう経緯でそうなったのかは記憶にないが、知らないうちに女子数人も僕の「友達コミュニティ」に入っていて、普通にしゃべっていた。今から考えれば不思議だが、それに何の違和感もなかった。 異性として意識することもなく、仲間としての扱いを互いにしていた。

 夏の短縮授業期間、放課後に友達の男子と二人で高校の近くのファストフード店に入りしゃべっていた時、突然その友達は言った。「あの子のことどう思う?」。僕はなんとも思っていなかったから質問の意味がわからなかった。友達は渋い顔をしていた。どうも女子がコミュニティに入ってきたことに違和感を感じていたようだ。いや、拒絶感といっても良いかもしれない。「俺は嫌やなあ」とまで言っていたし。

 結果的には、コミュニティから彼を含めた何人かの男子は距離を置き始めた。残った僕らと女子何人の間でコミュニティは維持されていたが、その性質は少し異なるものになり、最終的には色恋沙汰も起きた。 彼が言っていた「女子が入るとややこしくなる」という言葉は、現実になってしまったとも言える。

 僕らのコミュニティに入ってきた女子は、クラスの中でも多少異質で、アイドルには到底ならない。ある者は確かに可愛らしくはあったが、性格に難はあるし、趣味もメインストリームにはないし、おしゃれのセンスが図抜けているというわけでもない。またある者はひょうきんで面白いやつだったが、決して美人ではないし、性格に難もあるし、趣味もなかなか変わっていた。いわゆる「サークルクラッシャー」的な女子ではさらさらなかったし、その後に起きる色恋沙汰のゴタゴタも、サークルクラッシュ的な文脈で起きたわけではなかった。



 実は、機微を知らなかった時代、無謀にもクラスのアイドルだった女子に告白したことがある。当然玉砕したが、本当に消したい過去、恥ずかしいだけの過去である。

 その後、属するコミュニティが男子だけのものから、男女共同のものになり、女子に対する高すぎる理想も消えた。色恋沙汰の当事者でもあった僕が好きになったのは、可愛らしいほうの女子ではなく、ひょうきんな女子のほうだった。まあ付き合うことはかなわなかったのだけど。

 言っておくが別に「身の程を知り、現実的になった」わけではない。本当に好きになった。だけど、相手は別にモテそうな人ではないのも確かで、驚きを以て受け止めた友達も少なくなかった。



 今、僕は60人ほどのインカレサークルで新聞を作っている。入稿期間には男女共に編集室に詰め、徹夜で編集作業にとりかかる。この歳だから、色恋沙汰も普通にある。そしてやはり、健全なアイドルポジションの女子もいて、美人なのに引く手数多という感じでもない人が何人か居る。そのあたりはみんな大人なのかなと思う。

 僕はこのサークルで色恋をしようという気がさらさらない。もちろんできるとも思っていない。ただ、コミュニティの中で起きている色恋沙汰や、色恋にもならない男女間の視線のやり取りを見ていると、高校時代の微妙で一種危うさをはらむ空気感を思い出す。 

大泣きする仲間たちと、泣けない僕

僕は女の人が泣いているのを見るのが苦手だ。と書くとキザなように見えるが、僕がどうすればいいかわからなくなってしまうだけのことである。 

先日もそういう場面に際した。サークル旅行の宴会場で一部の女性陣が集団で大粒の涙を流していた。さすがに本人たちも途中からいたたまれなくなったのか、障子の裏に移っていったがそれでもまだ泣いているらしい。

僕は別の集団で、容姿端麗な女性の先輩になぜ彼氏が出来ないのかについて「討論」していた。後ろで何かを話しながら延々と涙を流し続ける女性陣の動向が気になりつつも、僕が立ち入る場ではないと判断して、討論を続けていた。

涙の理由はその後、急迫した深刻なものではなさそうだと、なんとなくわかるのだが、それにしてもあの時の自分は何ともみっともない有様だったと思う。行動は全く正解で、涙の共同体が形作られた以上は外部が入るのはやはり違う。カタルシスの場を邪魔してはいけない。それはわかっている。だけれども、こちらはこちらでいたたまれない。涙は、それを見た者に何か行動を訴えかけているように錯覚させる効果があるんじゃないか、とまで思う。

僕も子どもの頃はすっ転んで泣いたことはよくあるし、少年サッカー時代は監督にどつかれ叱責され毎日のようにわんわん泣いていたのだが、中学以降はめっきり泣かなくなった。理由はわからない。ただ、泣けないのである。悔し涙も、歓喜の涙も、感動の涙も。

ただ一つ、例外があった。それは僕がまだ高校1年の頃、2012年3月11日の夕方、気仙沼の仮設商店街に行ったときだった。前年8月に初めて訪ねた気仙沼の街並みには人がいなかった。車は通りすぎるが、歩く人の顔は見えない。みんなどこにいったのだろう、と思うほどだった。でも震災から1年の節目の日、商店街はたくさんの人でにぎわっていた。その光景を前に、急に涙をこらえることができなくなった。声が上ずるほどだった。

あの日から僕は、一度も泣いていない。胸に熱いものがこみ上げても、涙にはならない。

その気仙沼の涙は僕の人生の転機になったが、 翌年の暮れにも人生の転機となるような出来事があった。詳しくはここでは書けないんだけれども、僕にとってはまさに救いだった。あの時は泣けなかった。体が熱くなり、頭がぼうっとなって眩暈がするほどだったが、涙にはならなかった。このときに「あ、もう僕は今後泣くことはできないのかもしれない」と思った。今もそう思う。

だから、宴会場で集団号泣大会を繰り広げている女性陣を見て、不謹慎かもしれないがちょっとうらやましく思った。男が泣くのはみっともない、とはいえ、泣きたくても泣けないのはなかなか辛い。

翌日、号泣メンバーの一人が自分の身の上について少し語ってくれた。相手のプライドを保つためにも同情はするまい、と肝に銘じながら話を聞く。話し手としても聞き手としてもうだつの上がらない自分を、会話の相手として選んでくれることに感謝しながら、いつか涙の共同体に加われるようになればいいなという、ささやかな夢を持った。

報ステのキャスターに求められる資質を考えてみる

 テレビ朝日報道ステーション」のキャスターを務める古舘伊知郎さんが24日、来年3月で番組を降板すると発表しました。氏の手腕には賛否両論ありましたが、局の顔として、ニュースキャスターの代表格として大きな存在感を持っていたことに間違いはなく、新聞各紙や他局のワイドショーがこぞってとりあげました。

 12年間番組を率いてきたキャスターが降板するとなれば、後任が誰になるのか気になるところです。そこで今回は、「ニュースステーション」から「報道ステーション」に至るまで、番組の中でキャスターがどのような役割を果たしてきたかを考察しつつ、次のキャスターにふさわしい人が誰かを考えてみたいと思います。

 各ポストの役割は 

 会見のなかで古舘さんは、番組自体は来春以降も継続する旨を明言しています。Nステから報ステに移った際、出演者は変わったものの、番組のフォーマットが大きく変わらなかったことを鑑みて、今回の考察の前提として、番組の雰囲気は来春以降もそんなに変わらないこととします。

 両番組においてメインキャスターは揺るぎない番組の軸としての存在です。もちろん久米宏古舘伊知郎両氏とも就任当初は、それまでのバラエティのイメージとの齟齬から、画面上の違和感はあったと思います。しかし数年経てば番組に欠かせない大きな存在となっています。

 そしてサブキャスター。Nステで言えば小宮悦子さん、渡辺真理さん。現在の報ステで言えば小川彩佳アナウンサーです。サブはメインキャスターと並んで番組の顔の役割を果たしますが、報ステとNステでは若干性格に違いがあります。

 Nステでのサブは、高い原稿読みの能力を持ち、番組に品位を持たせる存在です。久米さんがTBSラジオ『伊集院光日曜日の秘密基地』に出演した際に語っていることですが、サブに求めたこととして「無表情で原稿を読むこと」だったそうです。といっても、本当に人間が無表情で読もうとすると自然と顔が険しく見えてしまいます。ここでの「無表情」とは、主観的な読み方をしない、ということです。久米さんのニュースを軽妙に捌く様は、番組に親しみやすさを持たせる一方で、ややもすれば軽い番組に変容してしまいかねません。せめてニュース原稿自体への信頼性を高めるためには、無機質な原稿読みを実現できるサブが必要になります。

 これに対して報ステのサブは、メインの古舘さんと共に番組を進めていく役割です。このため、VTR明けに古舘さんに話を振られてコメントをすることもあります。とはいっても、コメンテーターとの会話を進めていくのは古舘さんの仕事。あくまで主導権は古舘さんにあります。

 コメンテーターは番組を引き締める存在。ニュースを読み解く存在として朝日新聞編集委員などが務めてきました。現在の報ステでは憲法学者の木村草太や、政治学者の中島岳志も加入し、オピニオンにこれまで以上の価値を持たせようとしています。

 このほか、スポーツ担当のアナウンサーや、スポーツ解説キャスター、天気予報担当、現場を駆け回るリポーター陣などがいます。またNステではスタジオにさらにもう一人女性のアシスタントキャスターがいましたね。

 キャスターの体制は変わるのか 

 以上がNステ、報ステのキャスターポストの現状をおさらいしたところで、キャスターの役割は来春以降変わるのでしょうか。ここからは、これまでのキャスターポストのフォーマットを変えると、番組の雰囲気は変わってしまうのでしょうか。

 例えば、今のNEWS23のような、アンカーマンとキャスターの2人を軸とする体制はどうでしょうか。NEWS23の場合、出演陣の筆頭は岸井成格さんですが、実際に進行を務めるのは膳場貴子さんです。VTR明けの第一声は膳場さんが担い、膳場さんの問いかけに対し岸井さんが答える、というかたちをとります。かといって膳場さんも、番組を仕切る、というよりは用意された原稿・スケジュールのもと進行しているという色が強く出ています。そのため、番組の良いところも悪いところも背負って引き受けるような顔が誰かはっきりしません。

 これこそがNステ・報ステの番組の特徴です。番組のメインが誰なのか、視聴者皆が一度見ればわかるのが最大の特徴です。そのための演出がふんだんに織り込まれています。独りで自分の言葉で話す時間があったり、コメンテーターやサブはメインキャスターから問いかけられない限り会話に入りません。

 そのため、番組の雰囲気を大きく変えない、という前提に立つならば、メインキャスターが2人いる双頭体制や、事実上はコメンテーターの役割を務める「アンカーマン」と原稿読み中心の「キャスター」のコンビ体制を敷くことはできません。原稿読みを担当するのでもなく、コメンテーターをやるのでもない、メインキャスターが必要になります。久米さんが自らの立場を「司会者」と呼んでいたのも、こうした出演者の連関から納得がいきます。

 メインキャスターに求められるパーソナリティは 

 報ステのメインキャスターには、番組を背負って立ち、原稿読みでもコメンテーターでもないパーソナリティを持つ必要があることがわかりました。では、そのパーソナリティ、具体的にはどのようなものなのでしょうか。

 一般的にニュース番組のキャスターに求められるパーソナリティを挙げてみましょう。

 例えば知性。日々様々なニュースを扱う上では、博覧強記の人がもってこいです。あるいは、経験。長年にわたり現場を取材し続けてきたジャーナリストがキャスターを務めることも多いですね。

 しかしこれらの性質は、報ステのキャスターにとってはさほど重要視されません。というのも、知性や経験の要素を担保する役割を、コメンテーターが果たしているからです。特に最近はその傾向が強くなっているのは、前述の木村・中島両氏の起用の件で触れたとおりです。逆にコメンテーターがいない番組や1人で進行する番組、例えば「筑紫哲也NEWS23」の筑紫哲也さんや、ニュース番組ではありませんが「クローズアップ現代」の国谷裕子さんは経験がキャスターとしての価値を担保している好例です。

 そして品位は、報道番組の顔ですからある程度必要とは言え、サブが高い能力を持って冷静に原稿を読めるのであれば、これまた最重要というわけでもない……。

 ここで久米さんの言葉に立ち返って見ましょう。「自分は司会者である」という言葉です。この番組は、一般的な報道番組におけるキャスターの役割よりも、司会者としての役割が求められます。それぞれ秀でた能力を持つ専門職の出演者(コメンテーターやサブなど)をまとめ上げて視聴者に橋渡しする役目です。

 視聴者への橋渡し、という観点で考えると必要になってくるのは「親しみやすさ」「話術」「場を回す力」というところでしょうか。

 「話術」は言わずもがな。「場を回す力」とは、共演者の特徴を引き出して視聴者に伝える力のことです。ひな壇トーク型のバラエティ番組では、ある芸人さんの話を受けて司会者が反応し、笑いのツボどころを増幅するためのツッコミや解説を入れたり、別の芸人に話を振ったりしています。この能力は報道番組にも活かせます。VTRの勘所をふまえてコメンテーターに話を回し、その解説を受けてさらに問い返したり、視聴者に語りかけたりするのは、古舘さんがいつもやっていることです。 

 そして「親しみやすさ」や「場を回す力」を培うために必要に重要なことがあります。それは「報道番組だけでなく様々な番組の経験が有る」ということです。実際、久米さんはラジオ、バラエティ、音楽番組と経験を積んできました。古舘さんは独特のプロレス実況を通して、与えられた状況に対して絶妙な反応を示す能力は抜群に獲得してきました。フリーアナウンサーとなり、バラエティや音楽番組も経験しています。

 なお、局に所属しているアナウンサーは、組織人ということもあって「番組のあらゆるものを引き受ける」という点においてフリーキャスターよりも印象が劣ることを付記しておきます。

 まとめ 

 まとめると、もし今の報ステのカラーを維持していくのであれば、新しいキャスターに求められる要素は「親しみやすさ」「話術」「場を回す力」といった、話題と視聴者を橋渡しできる能力にたけていることであり、それらの能力を培うために必要になってくるのは「報道以外の分野でも活躍してきたこと」です。さらにフリーの人のほうが、腕っぷし一本で戦えるほどの実力を持っているという意味でも、番組のあらゆるものを引き受けるという意味でも印象が良いということでした。

 これらの要素を兼ね備える人は、多くはありません。あえて具体的な候補を挙げていくとすれば、福澤朗さんや羽鳥慎一さん、宮根誠司さんなどになるでしょうか。女性も候補に入れると、小島慶子さんや渡辺真理さんあたりでしょうか。渡辺真理さんはNステ出身ということもあり話題性十分という気もします。

 ただ小島さんや宮根さんは近年、個性を強く打ち出すようになっており、周りの良さを引き出していくという色は薄くなってきているように思うので、やや厳しいかもしれません。

 以上述べてきたことは、あくまでも報ステのカラーを維持するという前提の下での話です。番組を作っていくためには予算的な問題もあるでしょうし、必ずしも久米・古舘路線を継承していくことが番組のために良いことなのかどうかは、最終的には番組を見た視聴者の判断によるところです。

 ただ、スポーツ紙の報道では、報ステたたき上げの富川悠太アナウンサーや、長年テレビ朝日で報道に関わり続ける長野智子さんらの名前も浮上していますが、これらの人たちがキャスターに就任すれば、番組のテイストは変容せざるを得ないのは、確実でしょう。

 果たしてテレビ朝日はどんな手を出してくるのか。注目したいと思います。