読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

また夢ンなるといけねえ

しがない男子大学生。新聞サークルの記者をしている。堺、六甲、西中島南方が生活の拠点。

「新着」を調べた

21日の日本テレビ番組「NEWS ZERO」で見出しに「新着」という表現があった。速報の意味なのだろうと推察。そこで、ふと「新着」という言葉が使われ始めたのはいつなんだろうと思った。メールが普及する前に「新着」という言葉はあったのだろうか。

気になったらすぐ調べようということで、新聞記事データベースで検索をかけてみた。

まず朝日新聞「聞蔵」で「新着」と調べてみたら、最古のヒットは1882(明治15)年12月6日の大阪朝日新聞朝刊社告。

先般新着の大器械を用い一昨夜より新聞刷立試み候處何分にも運転不慣の故を以て刷上り以外に手間取り昨朝の配達少々致延引候段看客諸君に對し甚だ御氣の毒に奉存候

要するに「新しい機械を使って印刷したら手間取って配達が遅くなってしまったのでごめんなさい」という内容です。他にも明治期は「新着時計」「冬物新着」のように、新しく届いた商品を売り出す広告でのヒットが大半です。

報道記事としてのヒットは1900(明治33)年9月20日の東京朝日新聞1面。上海特派員電の記事で見出しは「新着英国兵の部署」。上海から北部へ向かうインド兵がどこに上陸するかを書いた記事でした。その他「動物園新着の獅子と虎」の記事も。明治末期からは丸善が新刊本を紹介する広告が掲載され、その題が「丸善新着週報」となっています。

昭和に入ると「お年玉に新着米映画」などの見出しが見られますが、ヒット件数が大幅減。戦後の昭和期を通しても9件しかヒットしませんし、「新着陸方式」「新着工」などたまたまヒットしてしまった語を抜くと、たった4件。昭和最後の「新着」は1965(昭和40)年7月20日の東京版朝刊「新着の米歩兵と交戦 ビエンホア米空軍基地周辺 ベトコンが襲撃」というベトナム戦争関連の記事でした。

平成では1件のみ。1994(平成6)年10月28日の東京版朝刊「中国文化の日 5回目記念 多彩な行事 1日から日中友好会館 一流奏者の民族楽器演奏/平山氏ら講演/新着ビデオ上映」でした。

意外にも新聞ではメールや電話の「新着」は使われたことがないようです。もう少しこの言葉の使用例を探っていくべきかもしれません。

肩書につかまる

 僕が身を置くサークルは、3年生の1月上旬が引退期なのだが、その2週間後くらいに「新年会」と称して引退生を労う飲み会が行われる。

 このとき、引退生の寄稿をまとめた小冊子が配られる。内容は、3年間の自身の活動を振り返ったものや、後輩へのメッセージなど。

 はっきり言って自己満足の文章ばかりで、部に残る側からすれば読んでも何ら面白くはない。こうして駄文を書き連ねる人間が言えたことではないのだろうが、まあそれでもつまらないものはつまらないのだ。

 とは言いながらも内容は気になるから、一応目を通した。ある先輩は後輩一人ずつに短いメッセージを寄せていた。僕にはというと、辛そうに見えるときがあるのでもっと肩の力を抜いてもいいのでは、とおおよそそんなことが書いてあった。

 じゃかあしいわい、と心の中で生意気言いながら、図星だなあとも思う。

 そんなことを考えていたらある記事が目にとまった。

https://www.buzzfeed.com/satoruishido/otoko-mondai?utm_term=.ciD2NRNBp#.kmkB0l0oe

 「男はつらいよ」ではなく「男がつらいよ」。なるほどうまいなあと感心した。

 役割意識というのがあって、この記事で言えば「男」というラベルがそれに当たる。確かにこのラベルは厄介で、「男なんだから」が頑張るきっかけになったこともあるし、でもやっぱり頑張ってもうまくいかないことのほうが多いからしんどい。でもラベルがなくなったら、自分はどうやって「頑張ろう」という気になるのか分からない。そういう人間の一人として僕も在る。

 僕は肩書とか役割がないと頑張ろうと思えない人間なのかなと感じることが多い。「肩書にとらわれずに」とか言われても、肩書がなくなれば多分何もしない。だから自分で勝手に何か名乗ってみたりする。形から入る、ってやつだ。

 昨年1年間はローカル面編集長、今年は編集部門長の肩書があるから助かっているという意識がすごくある。

 ただ周りには肩書の副作用が目立って見えるらしい。確かにしんどい面はあるし、ローカル面編集長をもう1年やれと言われたら勘弁願う。

 柔軟性のない人間だなあと自分の弱さを実感しつつ、だからどうすればいいのかも分からず。しばらくは肩書にしがみつくのだろうか。

都会とは

 クリスタルキングの「大都会」で歌われる大都会は博多のことらしい。シュガー・ベイブの「DOWN TOWN」で歌われるダウンタウンは道頓堀のことらしい。

 名曲の都会像が東京をモチーフにしていないと知って勝手にがっかりするのは、リスナーのエゴなのかもしれない。むしろ東京に置き換えても成立する普遍的な歌詞世界として評価すべきかもしれない。

 でもなぜか、受け入れたくない自分がいる。

 「DOWN TOWN」を聞いて新宿とか、池袋とか、原宿の竹下通りの街とかをイメージした。おっしゃれな街に繰り出す若者の瑞々しい風景。そこにグリコの看板があっては台無しなのだ……。

 大阪生まれ大阪育ちの僕が東京に憧れるきっかけになった曲が、大阪の風景を歌っていたこの入れ子構造。まるでフラクタル。闇に飲み込まれそうだ。

先輩の言葉に興醒めした僕

 所属する新聞サークルもついに代替わりの時期が来た。1月号の紙面製作を終えると同時に、3年生が引退した。僕ら2年生が最高学年になる。

 これまでにないほど進捗が進まず、てんやわんやになりながら、なんとか紙面校正が終わり出稿を終えた。僕は校正の責任者を引き継ぐことになっていたので、その研修ということで現職と同様、共通紙面と各大学ローカル面の合わせて約20面をチェック。15時間ほぼノンストップで紙面とにらめっこし続けた。

 自分の仕事が終わったのが土曜の午前11時。しばらく他の作業も手伝っていたが、不意に眠気がひどくなり、狭い編集室でうたた寝をした。

 起きると午後3時半。すでに出稿作業も終わり、先輩たちは引退記念に宅配の寿司をとっていた。ああ、お別れなんだなあ、と働かない頭でぼんやり見ていた。

 するとほろ酔いの男の先輩が近寄ってきて、握手してきた。「いや、ほんとお前すげえよ。ずっと紙面見てたもんなあ。助かった」。しばらく先輩が僕に喋り続けてきた。周りは多少笑いながらも、微笑ましく見てきた。

 当の僕は、これは嫌だなあと思っていた。

 去る者は別れ際に言葉を残したがるものだとは分かっているし、僕もどちらかと言えばロマンチストだから同じようなことをしてきたと思う。

 だけど、残される身からすれば、もはや自由の身の去る側が残す言葉など、基本的に無責任で、陶酔的で、有難くもなんともない。そりゃあんたは気持ちよく終わったかもしれんが、こっちはまだ続くんだ。そういう気分になって、興醒めだった。

 不孝者だなあと思ったから、流石に思いを口にはせず、せめてもの抵抗として話を聞く間、先輩の顔は一切見なかった。

 結局そのまま飲みにいくことになって、その先輩は泣いたり寝たり。結局、ほとんど言葉を交わさずにお開きとなり、さよならしてしまった。「やっぱり、顔を見て話聞くべきだったかな」と一瞬思ったものの、人間の別れなんて、ドラマチックになんかならないもんだ、と思い直した。

***

 先輩の引退は、大きな損失です。ありがとうございました、なんて言えません。何、勝手に辞めてんだバカヤロー。謝辞を述べるのは、僕が後輩に、損失の埋め合わせとして何か残せてからです。それまで、とりあえずさようなら。

淋しさは珍味

 夜型の人間だから無駄に徹夜して家を出ることがよくある。きょうもそう。日の出まで1時間半もあるのに家を出た。自転車を出先に置きっぱなしにしてしまったので、歩いて駅まで行く。微妙に徹夜疲れを感じながら、冷え込みが厳しい夜明け前に30分弱歩くのはなかなかオツだ。

 独りで暗い外を歩くのは夜明け前に限る。まだ多くの家庭が眠りについている頃、こっそりと穴を這い出る卑しさと淋しさが何とも言えない。童貞だから「この寒い夜を同じ布団で温め合う人達もいるんだろうなあ」とか想像して、さらに淋しくなる。

 内向的で人付き合いが苦手で、なのに自意識過剰で淋しがるハリネズミのような僕は、淋しささえも一種の珍味のように感じる。足の指がかじかむのを感じながら、黒い空にほの白い雲がゆっくりと動いているのを見るだけで、あたりめをしがんだときの味わいが思い浮かぶ。

 こういう独りの時間には山下達郎の「MELODIES」が似合う。名盤とは分かっているけどこんなに良かったっけ、と思うくらい響いてくる。「黙想」から「クリスマス・イブ」の流れは、胸に淋しさがじわりと広がる感覚がして本当に良い。

 TBSラジオ「東京ポッド許可局」で、感動をうたったり泣けると評判になったりする映画を「排泄映画」と呼んでいるが、僕にとっては淋しさを感じるこの時間はまさに排泄タイムなのかもしれない。孤独を噛み締めつつ、今の生き方しかないよな、と自分を慰める一連のルーティーン。非生産的だが自己肯定には(多少ひねくれていたとしても)大いに役立っている。

 これだから夜型の生活は辞められない。

きれいな街がのこす記憶

 神戸市内の大学に通い始めた頃、高校・大学共通の先輩が飯に誘ってくれたことがある。キャンパスは六甲山の斜面に位置し、周りに学生街はない。駅まで下りてやっと店が出てくる。その時も先輩と2人で歩いて坂、というよりも山を下りた。先輩は地形観察が好きで、道中「この地形は水脈と一致する」とか「この急坂が面白い」とか、地理に疎い僕には分からないけどなんとなく面白そうな話をしてくれた。

 駅周辺まで下りてくると、せっかくだからと周辺を散策することになった。駅の南側には行ったことがなかったから新鮮な体験だったが、住宅街の中にある公園に着いた時、先輩が言った。「この辺は震災で潰れたところやね」。確かに辺りを見回すと、比較的新しい建物が多い。道幅も広めで、何よりも家並みが整然としていて地区開発が計画的に成された跡が見える。

 ふと東日本大震災の被災地、宮城県気仙沼市の様子を思い出した。2011年8月に訪ねたときのことだ。「地震の被害はほとんどなくて、津波で全部やられた」という噂は本当だった。バスの車窓からでも津波が到達しただろう範囲がはっきりと分かるほど、浸水したところとそうでないところでは、家屋の状態がまるで違った。

 同じようなことがこの神戸でも起きていた。先輩と歩いた辺りは延焼した区域ではないので、地盤が弱く建物の倒壊が集中したところなのだと思う。今ではすっかりきれいな住宅街になっている。

 いま所属している報道サークルは、阪神・淡路大震災を機に作られた。部室には震災関連の資料が蓄積されている。当時撮影された写真を収めたアルバムには、先輩と歩いた地区を写したものもあった。今の風景からは想像がつかない画だった。

 毎年1月が近づくと震災特集を展開する。その一環で遺族にもインタビューした。亡くした当時学生の娘さんは、まさに先輩と歩いた辺りの下宿で犠牲になっていたことが分かった。

 まもなく震災から22年がたとうとしている。神戸はきれいになった。しかし、それこそが、22年前の記憶をこの街にとどめているのだと僕は知った。

ワーク・アンド・ライフ・バランスって何だ

 高校1年の時に学生記者として報道に携わり始めてから、もう5年半が過ぎた。
 僕は、報道をやる人間は四六時中報道のことを考えるしかない時期を経験すると思っている。いや、そういう時期を経験しないような記者は、記者としての感性に欠ける。全うに報道をやっていれば、何気ない日々の行動と記者活動が不可分だと自覚したりするはずだと信じている。
 例えば登下校時に掲示板に目をやってネタを探したり、各紙の記事を読むとき細かな表現の差異の理由を考えたり。ネタ探しや表現の追求、取材の糸口は、サークルの活動時間の中にあるとは限らない。それこそ事件は編集室ではなく現場で起きているのだから。
 日々の生活が記者活動と不可分であることは、当然のことである一方で、記者活動に生活が縛り付けられる側面もある。
 ある時、新聞を手に取ったときは読む前にひと呼吸置くようになった。自分の受け持つ範囲のニュースが載っていたら、場合によってはすぐに取材に行かなければならないかもしれないからだ。極端な表現をすれば、新聞は赤紙にもなり得る。
 ネタによってはすぐに動いて取材の糸口を見つけなければ、後になってネタが大きくなったときに逃してしまう可能性もある。メディアが速報にこだわる理由の一つは、後々の取材をしやすくするためというのもあると、今の活動を通して痛感している。
 絶えず瞬発力が求められる記者活動は、とにかく疲れる。約1年弱、小さい部署の責任者をやって、体力も気力も持って行かれたという気がする。
 でもサークル内で、そういう記者のペーソスを理解している人間がどれくらいいるだろうか。部署によって活動の趣向も濃淡も異なる。必ずしもみんなが同じように、辛さと楽しさの相克を感じているとは、僕にはどうも思えない。
 周囲と価値観を共有できないなら、独りでセンチメンタルになるしかない。それがどうも悔しくて、先日の忘年会で激高してしまった。今も苛立っている。周りに、というよりも、自分に。
 まあでもたぶん僕の思い上がりだ。今は冷静になれないし尾を引きそうだけど、時が解決する種の問題だと思う。人の情けにつかまりながら、折れた情けの枝で死ぬ――。報道なんてそんなもんだ。